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ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート②-

 セーレン・キェルケゴールの著作『不安の概念』は、或る意味では、既にP・M・メラーが将来に激震を齎すだろうと予見し、ニヒリズムという名称によって総括した否定的な諸傾向を徹底的に論破するものと解されなければならない。ニヒリズムの傾向は精神的存在としての人間に対する信頼を毀損し、人間を単なる限られた偶然的な諸要素の産物に貶めてしまうであろう。

 これに対して、『不安の概念』におけるキェルケゴールの仮名ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、説得力に溢れた仕方で、人間は有限性に属する一存在であるばかりでなく、永遠性に向かって措定されていることを証明する。彼はこれを人間の現存在の歴然たる現象としての不安によって心理学的に基礎付けるのである。今や彼にとって人間の不安は、人間が永遠なるものへの関係を有している徴証となる。個々の人間にとって本質的な意味での自由について語り、同時にまた責任や罪についても云々することを可能ならしめるのは、まずもって人間におけるこの永遠的な要素なのである。[…]このような人間の自由・罪・宿罪の問題はあらゆる時代に顕在化するが、ニヒリスティックな傾向やあらゆる価値の相対化が強烈に支配する時代には特にラディカルになる。(グレゴーァ・マランチュク『キェルケゴールの〈不安の概念〉における自由の問題』より)

 

2.「自由-非自由」及び「罪性」における相互対論的両義性 

 前ブログ記事(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート①)で『不安の概念』の副題と緒論から「不変なもの」「罪が常に生ずるところのもの」「自由」「配置的前提」「罪の実在的な可能性」を関心の対象とする心理学の考察対象が『不安の概念』においては「不安」であるということを取り上げておいた。罪が常に生ずるところのもの、それは必然性によるのではなく、自由によるのだということはキーポイントである。これは、『不安の概念』という書物が、表面的には以上の意味での不安の問題を取り扱うが、深層的には自由の問題を扱う自由論であるということを含意している。「不安は、ここでは常に自由に関してしかるべく扱われねばならない(Angest er her bestandig at tage i Retning af Frihed.」(『不安の概念』22A12段落目)。キェルケゴールは自由の問題を、人間実存の本質的な課題であると確信していた。そのことは仮名著作・実名著作問わず見られ、彼の著作の全てがこれに関わっていると言っても過言ではないと思われる。キェルケゴールハウフニエンシスの名で「罪がいかにして生ずるか」ということを徹底的に心理学的[=実存反省的]に考察しようとした。そしてその態度を最初の人類の最初の罪においても貫いた。というのは、それが人間の罪の原型だからである。この心理学[=実存的反省]的考察では、前ブログに記しておいた通り、宿罪(遺伝的罪)の教義はもとよりある前提とされる。宿罪の教義は人間の堕罪とは別のものであるから、罪の発生の心理学の妨げとはならない。ハウフニエンシスにおいては、罪があるということではなく、罪が発生するに至る事態こそが最も緊要の関心事となっている。罪の問題を根源的に反省する瞬間には自由の問題が存在する。罪の問題と自由の問題は双生児のようなものである。古来よりこの問題は、一般の教義が教えるように、アダムの原状態としての純然たる自由状態が、アダムの堕罪によって失われたとだけ説明される。これに対してハウフニエンシスは、アダムにおいて既に、のちの人類と同じように不安があったとした上で、そのようなアダムにおいては、以上のような無記の自由が初めからあったのではなく、むしろ自由の可能性として非自由が初めからあったのだとする。アダムの無の不安という非自由の現実性は自由の可能性としてある。このことは、ハウフニエンシスの言う不安に、自由と非自由の相互対論的(dialektiskな両義性Tvetydighedがあるということを意味する。そして堕罪後のアダムにおいても、後々の個々人同様、罪の結果としての不安という意味での非自由が生じている。ここでもまた、再び不安の非自由の現実性は自由の可能性としてあり、やはり自由と非自由の相互対論的両義性があるということになる。本ブログ以降の説明において筆者は、後々の説明の便宜上、アダムの堕罪前の非自由を「無自由」と表記し、堕罪後の非自由をそのまま「非自由」と表記することにして、それらの非自由の質的差異を表すことにする。そしてこの無自由・非自由の双方の現実性が自由の可能性としてあるという、その自由と非自由の相互対論的両義性を、私淑する大谷長に従って「非-自由」性と表記したい。大谷長が「非-自由」という表記において説明しようとしたことで重要なのは、そのハイフンでもって、自由と非自由の相互対論的両義性が持っている質的飛躍の瞬間を引き起こす「飛躍の弾力性Springets Elasticitet」(キェルケゴールないしハウフニエンシスがTvetydighedという言葉を使う時には「曖昧さ」を表しているのではなくてこの弾力性を説明している)を表しているということである。不安の無における無自由・非自由の「非-自由」性において自由はその内で苦悶しているが、その最終局面において飛躍的に、行動・行為として、眼前に隠れることなく、ありのままに現れるのだと。この意味で無自由・非自由の「非-自由」性は同時に自由の「非-自由」性でもある。自由は人間実存の自己現成の保証の方向で考えられているのである。このように説明されれば、ハウフニエンシスが、仏教用語でいうところの「大自在力」(心が煩悩の束縛から解放されて自由となり、何事でも思うがままになしうるという、仏・菩薩が持つとされる能力)のような意味合いを、不安に持たせているのだと見て取る方もおられるのではないだろうか。

 ところでハウフニエンシスは「宿罪(遺伝的罪)は現在的なものであり、罪性である。そしてアダムは、罪性のなかった唯一の者である。罪性はアダムによって生じたからである(Arvesynden er det Nærværende, er Syndigheden, og Adam den Eneste, i hvem denne ikke var, da den blev ved ham.)」と述べている。エマニュエル・ヒルシュは彼自身の『不安の概念』の独訳において、この罪性に当たるデンマークSyndighedはドイツ語では用いられないと指摘している。彼によると、Syndighedというデンマーク語は、ドイツ語的にはSündlichkeitSündhaftigkeitの間を揺れ動くような両義性があり、そのことを表すためにSündigkeitというあまり用いられない訳語をとったとする(ただし形容詞sündigは普通に用いられる)。筆者がこの説明を補足するとすれば次のようになる。SündlichkeitSündhaftigkeitを日本語に訳するとその意味は殆ど大差がないように思われるが、この場合、語の構成を見ておく必要がある。前者の語を構成しているlichは名詞Sündeにつけて「…に属する、…に関する、…の性質の、…のある」等を意味する形容詞をつくるのに対して、後者の語を構成しているhaftは名詞Sündeにつけて「…のような、…らしい、…のある」を意味する形容詞をつくる。そしてどちらもkeit(後者はhaftで終わるのでhaftigkeit)をつけて形容詞から女性抽象名詞を作ったかたちになっている。どちらもそんなに違わないように見えるが、ドイツ人であるヒルシュに言わせると微妙に両者のニュアンスは異なるようである。つまり、Sündlichkeitが直訳すれば「罪に属すること、罪に関すること」という意味で、その語で罪そのものを直接指し示すのに対して、Sündhaftigkeitは「罪のようなこと、罪らしいこと」という意味で、Sündlichkeitと比較すると、どちらかといえばではあるが、罪そのものを直接指し示すのではない、ということになる。そしてヒルシュがSyndighedにあてた訳語Sündigkeitを分析すると、igを名詞につけて「…のある、…のような」を意味する形容詞をつくり、更にkeitをつけて女性抽象名詞をつくっているのであり、以上のSündlichkeitSündhaftigkeitの両義を持つ語であることを示しているわけである。遠回りになったが、デンマーク語のSyndighedの語の構成は名詞Syndigをつけて形容詞化し、更にhedをつけて共性抽象名詞となっているものであり、語の構成としてはSündigkeitと同じつくりをしているのであって、実際に以上に見たように、相互対論的両義性を予想する意味合いを、このデンマーク語自体が持っているとみなければならない。大谷長は『キェルケゴールにおける自由と非自由』において、以上と同じことを実に正確にSündlichkeitを「罪深さ」、Sündhaftigkeitを「罪が付き従っていること」と訳し分けてヒルシュが用いたSündigkeitの両義性を見事に簡明に説明しているが、辞書を調べても単に訳語を見るだけではわからない。よって筆者は語の構成を補足として説明する必要を感じたのでここに解釈を載せておくことにした。そしてこのことは実際にハウフニエンシスが、罪が質的飛躍によって生ずること=罪の生成・キネーシスを説明する過程で言われているところを見てみることで確認できる。

Veler hun skabt ligesom Adam, men hun er skabt ud af en foregaaende Skabning. Vel er hun uskyldig ligesom Adam, men der er ligesom en Ahnelse om en Disposition, der vel ikke er, men dog kan synes som et Vink om den ved Forplantelsen satte Syndighed, der er det Deriverede, hvilket prædisponerer den Enkelte uden dog at gjøre ham skyldig.

 確かに彼女(エバ)はアダム同様に創り出された。しかし彼女は或る先行の創造物から創られた。確かに彼女はアダム同様に無垢である。しかしそこには言ってみれば或る配置についての予感(en Ahnelse om en Dispositionがあり、それは確かに罪性ではないが、しかし伝播によって据えられた罪性(Syndighed)についての目配せのように見ることができる。その罪性は派生されたものであり、これは個人を罪責あるものにすることなくして、彼に対して前配置する(prædisponererのだ(拙訳『不安の概念』第1章第6節・強調は筆者)。

 この文が説くところは次の通りである。エバは先に創られたアダムから創られた。それ故エバはアダムと同様に無垢なのだが、彼女には、伝播によって据えられ、派生された罪性の目配せとも言うべき配置についての予感がある。この派生された罪性は、単独者を罪責あるものにするのではない。この派生された罪性は、単独者がやがて質的飛躍によって罪責ある者になることを前配置するものであり、人類においてそのような罪責の拡がりが生ずる、しかしその罪責の拡がりはやがて贖いによって克服される、という配置が、実は前もって純粋有den rene Værenキェルケゴールが永遠なもの、或いは永遠性と呼ぶところの救済理念の霊的な絶対存在としての神の抽象的表現。これはヘーゲル的な汎論理的-弁証法的な抽象による絶対精神的純粋存在とは全く異なる)によって設えられていることを意味し、エバを通じてその配置についての予感が暗示されているということを示している。そしてそれは、人間に罪が生じてそれが贖罪の救いによって根絶されるべき遠く長い配置の前配置(Prædisponeren)である。この或る配置についての予感とは、純粋有の予感であり、贖罪によって罪が浄化される配置を前配置として感ずることを意味する。そしてこの意味合いの中でSyndighed(罪性)は「個人を罪責あるものにすることなくして、個人に前配置するもの」と言われる。「罪深いこと(Sündlichkeit)ではないが、罪が付き従っていること(Sündhaftigkeit)」であるわけである。こうした語法こそ、Syndighedについて上記に見たような、相互対論的両義性を持っているものと言わねばならないだろう。

 

【参考文献】

Søren Kierkegaards Skrfter(セーレン・キェルケゴールデンマーク語原文が読めるサイトです)

Begrebet Angest 1844(『不安の概念』独訳:Thomas Sören Hoffmann 編„Der Begriff Angst“/„Die Krankheit zum Tode“ marixverlag 2011 邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳)

■大谷長 著『キェルケゴールにおける自由と非自由創文社 1977

聖書ウィキソースで全文読めます。)