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ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート⓵-

 本ブログ記事は、非常に難渋な言い回し方が多いヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』について、原文を参照しつつそのアウトラインを追うことができるようにまとめたノートです。アウトラインを追えるようにするという意味で、本ノートを参照する際は、できればどの訳でも構わないので邦訳があるとよいのではないかと思われます。デンマーク語からの訳は基本的に拙訳ですが、まとめるにあたっては私淑するキェルケゴール研究の大家であられた故・大谷長博士の邦訳及び解釈、及びトーマス・セーレン・ホフマンの独訳を大いに参照させていただいています。私の訳に誤訳等のご指摘がありましたらTwitter @Leethoo_Tatまでお知らせいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

 

1.副題と緒論からみる課題設定のアウトライン

 

En simpel psychologisk-paapegende Overveielse

i Retning af det dogmatiske Problem

om Arvesynden

af

VIGILIUS HAUFNIENSIS

 

宿罪¹⁾についての

教義学的問題の方向への

単純な心理学的²⁾-指標的探求

ヴィギリウス・ハウフニエンシス³⁾ 著

 

 ハウフニエンシスは『不安の概念』「緒論」でこう述べている。「本書が課題に据えたのは、宿罪についての教義を忘れずに覚えておき、かつ眼の前に持つというようにして、「不安」という概念を心理学的に取り扱うということである(Nærværende Skrift har sat sig som Opgave at afhandle Begrebet »Angest« psychologisk saaledes, at det har Dogmet om Arvesynden in mente og for Øie.)」(拙訳『不安の概念』「緒論」4段落目)。副題で言っていることはこのことと同じ意味である。ハウフニエンシスは、ひとまずは罪の概念を問題にしなければならないとする。とはいえ、彼においては罪は、心理学そのものの関心事たるような問題ではない。彼は、心理学が罪の生ずるに至るまでのギリギリのラインまでを、そしてまた罪の生じた瞬間以後の状態を、その考察領域とするものであるとして、罪そのものの説明は教義学に委せるものとした。心理学は罪がいかにして生ずるものなのかを問題とし、あたかも罪がそこにあるかのところまではついて行くことはできる。しかし罪が生ずるということ、ないし罪がそこにあるということ自体は心理学の取り扱いうることではないというわけである。「心理学が関わるべきものは、動かされた安寧の中に留まっている安らっているものでなければならない。それは常に自分自身を生み出すか或いは抑制されるかというような不安定なものではない。しかしその不変なもの、そこから罪が常に生ずるところのもの、それは必然性によるのではない――というのは、必然性による生成は、たとえば植物の全歴史が一つの状態であるというように、一つの状態であるからである――そうではなくて、自由によるのである。この不変なもの、その配置的前提罪の実在的な可能性それが心理学の関心の対象である。Hvad Psychologien skal have med at gjøre maa være et Hvilende, der forbliver i bevæget Rolighed, ikke et Uroligt, der bestandigt enten producerer sig selv eller reprimeres. Men det Blivende, det, hvoraf Synden bestandig vorder, ikke med Nødvendighed; thi en Vorden med Nødvendighed er en Tilstand, som f. Ex. Plantens hele Historie er en Tilstand, men med Frihed, dette Blivende, den disponerende Forudsætning, Syndens reale Mulighed, det er en Gjenstand for Psychologiens Interesse.)」(同15段落目)。以上に言われている「不変なもの」「罪が常に生ずるところのもの」「自由」「配置的前提」「罪の実在的な可能性」を関心の対象とする心理学の考察対象が『不安の概念』における「不安」である⁴⁾というわけである。このことは後々続いていくハウフニエンシスの議論において重要なのでよく踏まえておきたい。

 ところでヘーゲルは心理学を主観的精神の学とした(『エンチクロペディ』§387)。しかしそれは、それが罪の問題に面するや否や、主観的精神の学自体が何よりもまず絶対的精神の学に転換する必要に迫られる。ハウフニエンシスは、それはつまり教義学なのだと批判したかたちとなっている。「心理学が罪の実在的な可能性を探求するのに対して、教義学は宿罪、即ち罪の理念的可能性を説明する(Medens Psychologien udgrunder Syndens reale Mulighed, forklarer Dogmatiken Arvesynden, det er Syndens ideelle Mulighed.)」(同19段落目)。

 ハウフニエンシスは「罪はその定められた場所を有しているか、或いは実を言えばそれは全く場所を持っていない。しかしこれが罪の規定である(Synden har sin bestemte Plads eller rettere den har slet ingen, men dette er dens Bestemmelse. 」(同4段落目)としている。「罪の概念には真剣さが対応する(Til Syndens Begreb svarer Alvoren.)」(同7段落目)のであるから、その真剣さという気分に相応しくない場所で罪が取り扱われることは不可能である。従ってハウフニエンシスは、罪が美学、形而上学、論理学、心理学、倫理学において無反省に取り扱われるのであれば、罪の概念は作り変えられてしまい、罪の概念に正しく対応する真剣さという気分も混乱させられることになるとするのである。ハウフニエンシスが説くところに従えば、我々にしてみれば真剣さという気分が対応する罪の概念には倫理学がその場所として最も相応しいのではないか、と一見思われるかもしれないが、実のところ倫理学は、理念性を現実性へともたらそうとするけれども、現実性を理念性へともたらそうとする方向をとらないという問題がある。つまり、理念的な要求を掲げておいて審くことはするけれども、養うということをしないわけである。倫理学の根幹はその理念性にあるのだが、もし倫理学が罪を取り上げようとするものなら、その理念性はおしまいになってしまうというのである。罪は個人を超えた前提であり、どこまでも人間に根深く存する前提である。倫理学はここにおいてもはや役に立たなくなる。更に「宿罪(原罪:Arvesynden)」という倫理学の領域の全く外にある範疇が現れてくると、倫理学で罪の概念を考察するにはより一層絶望的となる。罪は決して一つの例外というわけではない。ここで罪を前提し、そして宿罪を前提とすることで罪を説明する学、即ち現実的なものを理念性に高めるために現実的なものをもって始める教義学が登場する。ハウフニエンシスはこのように宿罪ないし罪の問題については、本質的に教義学が取り扱うべきものとした。「宿罪についての 教義学的問題の方向への 単純な心理学的-指標的探求」という副題は、以上のように、教義学に向かうべき指標を与えるための単純な心理学的考察を「不安」に関して行うということを断っているのである。

 ただしここで注意しなければならないことがある。それは、ハウフニエンシスが、教義学が純粋に取り扱われることは稀であるとした上で、伝統的な教義学理解を批判しているという点である。「教義学と共に、かの厳密な意味で理念的学問と呼ばれるところのものに対して反対のところで、現実性から出発する学問が始まる。教義学は、現実的なものを理念性へ高めるということのために、現実的なものをもって始める。教義学は罪の現存を否定しない。それどころか、教義学は罪を前提とし、そしてそれを宿罪を前提するということによって説明する。しかし、教義学が純粋に取り扱われることは極めて稀である。だからひとが屡々見出すのは、宿罪がそのように教義学の領域の中へ引き入れられる場合に、教義学の異質的な由来の印象が一目瞭然ではなく、却って混乱させられるということである。このことは、ひとが教義学の中で天使、聖書等々についての教義を見出す場合にも起こる⁵⁾。それ故に、宿罪を教義学は説明すべきではなくて、宿罪をあたかもかの渦巻⁶⁾のように、それを前提することによってそれを説明すべきなのである。かの渦巻についてはギリシャの自然思弁が幾つかのことを語っている。これはどのような学問も捉えられない原動的な或るものなのである。(Med Dogmatiken begynder den Videnskab, der i Modsætning til hiin stricte saa kaldte ideale Videnskab gaaer ud fra Virkeligheden. Den begynder med det Virkelige for at hæve det op i Idealiteten. Den negter ikke Syndens Tilstedeværelse, tvertimod, den forudsætter den og forklarer den ved at forudsætte Arvesynden. Da imidlertid saare sjeldent Dogmatiken behandles reent, saa vil man ofte finde Arvesynden saaledes dragen ind med indenfor dens Grændse, at Indtrykket af Dogmatikens heterogene Oprindelighed ikke springer i Øinene, men forvirres, hvilket ogsaa skeer, naar man i den finder et Dogme om Engle, om den hellige Skrift o. s. v. Arvesynden skal derfor Dogmatiken ikke forklare, men forklarer den ved at forudsætte den, liig hiin Hvirvel, om hvilken den græske Naturspeculation talte Adskilligt, et bevægende Noget, som ingen Videnskab kan faae fat paa.)」(同9段落目)。聖書の教義が、天使や聖書についての或る教義と同じように、聖書学上、異質的な由来のものであるということについて、ハウフニエンシスは以上のように述べて、それに十分注意しないで宿罪の教義を引き入れるために教義学全体で混乱させられることを指摘した。彼は、だから宿罪について取り扱う際には、教義学が宿罪を前提すべきものとすべきであり、そしてそうすることによって罪を説明するという順序をとらなければならないとした。彼は異質的な由来のものを教義学の領域の中に引き入れて説明しようとする点を、教義学に対して批判したのである。

 

【補註】

1)宿罪:

 Arvesyndはドイツ語のErbsündeにあたり、どちらも通常キリスト教の「原罪」と訳される。大谷長は、彼自身の邦訳では「原罪」を訳語に採用しているが、他方でハウフニエンシスの議論の展開からしても、デンマーク語・ドイツ語のどちらにおいてもその語の由来を考えて「宿罪」と訳した方がよいのではないかと提案している。本ノートの著者はこの提案に同意して「宿罪」を借用させていただいている(ノート著者より補足:Arvesynd及びErbsündeの双方ともラテン語のpeccatum hereditariumからきており、Arve-Synd=Erb-Sündeという語の構成で、直訳すると「遺伝的罪」となる)。ハウフニエンシスの『不安の概念』では、このことは特に特筆されるべきこととされているが、Arvesynd=Erbsündeはアダムにおける第一の罪であるとと同時に、個人における第一の罪でもある。通俗的に知られている意味ではこのあたりが理解されていないと何を言っているのかわからなくなる恐れがあるので、この語源的な意味を踏まえた上で読んでおきたい。

2)心理学:

 ハウフニエンシスのこの語の用い方はコンパクトに言い換えれば「実存的反省」の意である。キェルケゴールがこの語を使う仕方としてはアンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート①も参照。

3)ヴィギリウス・ハウフニエンシス:

 Vigilius HaufniensisのVigiliusは、ラテン語のvigil(眠らない、寝ずの番の)から来ている。Haufniensisは「コペンハーゲンの」の意である。従って、ヴィギリウス・ハウフニエンシスの名は「コペンハーゲンの不寝番」を意味する。

4)「不変なもの」「罪が常に生ずるところのもの」「自由」「配置的前提」「罪の実在的な可能性」を関心の対象とする心理学の考察対象が『不安の概念』における「不安」である:

 このことは『不安の概念』という書の課題が、ハウフニエンシスという仮名でではあるが、キェルケゴールが「不安」という概念を通じて自由論を示そうとするものだということを表している。このことは後々の議論で取り上げていく。

5)教義学の中で天使、聖書等々についての教義を見出す場合にも起こる:

 イスラエルを取り巻く諸文明では、神は多数であり、ありとあらゆる精霊信仰があった。イスラエル宗教では、この圧倒的な異教性を、どれだけ弾き出し、どれだけ抱き込むかが課題であり、それが旧約の天使論を構成することとなった。以下に旧約における天使論と新約における天使論の構成過程をざっと記載しておく。

Ⅰ:旧約における天使論の構成過程

⓵神が「エロヒーム」と複数名詞で呼ばれることから始まり、「我々」(『創世記』1章26)という自己表現を用いる。

②神の子たちという中間存在を許容する(『創世記』6章2『ヨブ記』1章6)。

③やがて神自身に敵対する力となりうるところにイスラエルの神の唯一性にとって重大な疑義が挟み込まれる(『歴代誌上』21章1)。

ヤハウェは天使を抱き込んでそれを完全に克服するよりほかに道が無い。そうして主としてペルシャの宗教の影響のもとに、夥しい数の天使が登場することになり、その階級や役職や名称が定められた。また悪魔となった天使の堕落の消息から、遂には天使そのものの被造性にまで思弁は波及した(Ex.『ダニエル書』、『エノク書』、『ヨベル書』、『トビト書』の諸書の神学構成)。

Ⅱ:新約の天使論の構成過程

⓵上記の時代精神をイエスも弟子たちもそのまま呼吸している(『マルコによる福音書』1章13『使徒行伝』8章26)。

②一つの新しい思想が彼らの間に芽生える。イエスを主とし、神の子とし、更に神とすることによって、被造物たる天使は悉くその下位に押し下げられた(『ヘブル書』1章4)。

③天使は律法の仲介者としての足枷をはかせられる(『使徒行伝』7章30『ガラテヤ書』3章19)。

➃天使はキリスト者によって裁かれる地位におろされた(『コリント前書』6章3)。

⑤天使は必ずしも神聖な存在ではなくなった(『ペテロ前書』2章4『ユダ書』1章6)。

⑥天使はただ自己を空しくして神と子羊に奉仕し讃美する限りにおいてのみ崇高なものとして神の主権を犯すことなく存続されるようになった(『ヨハネの黙示録』1章15章11-14)。

6)渦巻:

 大谷長によると、キェルケゴールの出典典拠はディオゲネス・ラエルティオスの『哲学史、或いは著名な哲学者たちの生涯、意見と才気ある言表』であったという。キェルケゴールが参照していたのはデモクリトスとアナクサゴラスであるという。デモクリトスは、アトムは「大きさと数において無限である。それらは大きな全体をなして渦巻の中に動かされる。そしてそれを通してあらゆる合成された事物(火・水・風・地)が作り出される」とした。キェルケゴールが参照したデンマーク語訳には続けて「太陽と月はそのような渦巻きによって集約されており、そして強く動かされた小集団である」と書かれているという。またアナクサゴラスはヌースが混沌の中の一点に渦を生ぜしめ、それによって機械的に種子の混合と分離が生ずるとしている。

 

【参考文献】

Søren Kierkegaards Skrfter(セーレン・キェルケゴールのデンマーク語原文が読めるサイトです)

Begrebet Angest 1844(『不安の概念』独訳:Thomas Sören Hoffmann 編„Der Begriff Angst“/„Die Krankheit zum Tode“ marixverlag 2011 邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳)

■大谷長 著『キェルケゴールにおける自由と非自由創文社 1977

聖書ウィキソースで全文読めます。)