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ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート➃-

 キェルケゴールの思考とヘーゲルの思考は、人が著作の中に深く達すれば達するだけ、全く不等な行き方のものであることが分かる。単に一つの点或いは多くの個々の点の不一致が問題ではない。なぜなら、そのような不一致はたぶん除くことができるであろう。そうではなくて、思考の前提、出発点、目標及び方法についての全体的不一致が問題なのである。そしてこれはもちろん個々の点や領域、即ち論理学、形而上学、人間学(筆者註:心理学)、倫理学キリスト教理解、において現れてくるのである。それは例えば、一見周知のヘーゲル的三幅対を思い出させるかもしれないような『不安の概念』やその他著作における彼の三連結の人間学(心理学)的規定によって注意を外らされてはならないのと同様である」(ニェルス・トゥルストルプ『キェルケゴールヘーゲルへの関係』p.419)。

4.宿罪の相互対論的両義性についての概観⑵-第1章3節「無垢の概念」詳解-

さて、ハウフニエンシスは前ブログに記したことを踏まえた上で、アダムの罪=第一の罪=宿罪[=遺伝的罪]の概念を、「無垢(Uskyldighed)」の概念と関連付けてこれを解明する。

 Det gjelder her som allevegne, vil man i vore Dage have en dogmatisk Bestemmelse, maa man gjøre Begyndelsen med at glemme, hvad Hegel har opdaget for at hjelpe Dogmatiken. Man bliver underlig tilmode, naar man i Dogmatiker, der dog ellers ønske at være nogenlunde rettroende, paa dette Punkt seer Hegels yndede Bemærkning anført, at det Umiddelbares Bestemmelse er at ophæves, som var Umiddelbarhed og Uskyldighed aldeles identiske. Hegel har ganske consequent forflygtiget ethvert dogmatisk Begreb netop saa meget, at det frister en reduceret Existents som et aandrigt Udtryk for det Logiske. At det Umiddelbare maa ophæves, behøver man ikke Hegel til at sige, og han har da heller ei udødelig Fortjeneste af at have sagt det, da det logisk tænkt end ikke er correct; thi det Umiddelbare maa ikke ophæves, da det aldrig er til. Begrebet Umiddelbarhed hører hjemme i Logiken, men Begrebet Uskyldighed i Ethiken, og ethvert Begreb maa der tales om ud af den Videnskab, hvilken det tilhører, hvad enten Begrebet nu tilhører Videnskaben saaledes, at det udvikles der, eller det udvikles ved at forudsættes.
 Uethisk er det nu at sige, at Uskyldigheden maa ophæves; thi selv om den ogsaa var ophævet i det Øieblik, den udsagdes, saa forbyder Ethiken at glemme, at den kun kan ophæves ved Skyld. Naar man derfor taler om Uskyldigheden som om Umiddelbarheden, og er logisk nærgaaende og barsk med at lade dette Flygtigste være forsvundet, eller æsthetisk følsom over hvad det var og at det er forsvundet, saa er man kun geistreich, og glemmer Pointen.
 Som da Adam tabte Uskyldigheden ved Skylden, saaledes taber ethvert Menneske den. Var det ikke ved Skyld, han tabte den, var det heller ikke Uskyldigheden, han tabte, og var han ikke uskyldig, før han blev skyldig, saa blev han aldrig skyldig.
[…]
 Naar man saa ofte har spildt Dogmatikens og Ethikens og sin egen Tid paa at overveie, hvad der vilde have skeet, hvis Adam ikke havde syndet, saa viser dette blot, at man bringer en urigtig Stemning og altsaa ogsaa et urigtigt Begreb med sig. Den Uskyldige kan aldrig falde paa at spørge saaledes, men den Skyldige synder, naar han spørger saaledes; thi han vil i sin æsthetiske Nysgjerrighed ignorere, at han selv har bragt Skyldigheden ind i Verden, selv har tabt Uskyldigheden ved Skyld.
 Uskyldigheden er derfor ikke som det Umiddelbare Noget, der maa ophæves, hvis Bestemmelse er at ophæves, Noget der egentlig ikke er til, men selv, idet det er ophævet, først derved og først da bliver til som det, der var førend det blev ophævet og nu er ophævet. Umiddelbarheden ophæves ikke ved Middelbarheden, men idet Middelbarheden, har den i samme Øieblik hævet Umiddelbarheden. Umiddelbarhedens Ophævelse er derfor en immanent Bevægelse i Umiddelbarheden, eller den er en immanent Bevægelse i Middelbarheden i modsat Retning, ved hvilken denne forudsætter Umiddelbarheden. Uskyldigheden er Noget, der hæves ved en Transcendents, netop fordi Uskyldigheden er Noget, (hvorimod det rigtigste Udtryk om Umiddelbarheden er det, som Hegel bruger om den rene Væren, er Intet), hvorfor der da ogsaa, naar Uskyldigheden ved Transcendentsen er hævet, kommer noget ganske Andet ud deraf, medens Middelbarheden netop er Umiddelbarheden. Uskyldigheden er en Qualitet, den er en Tilstand, der meget godt kan bestaae, og derfor har den logiske Hasten, for at faae den ophævet, intet at betyde, medens den i Logiken skulde see at skynde sig lidt mere; thi der kommer den altid, selv naar den er iilsomst, for silde. Uskyldigheden er ikke en Fuldkommenhed, man skal ønske tilbage; thi saasnart man ønsker den, er den tabt, og da er det en ny Skyld at spilde Tiden med Ønsker. Uskyldigheden er ikke en Ufuldkommenhed, ved hvilken man ikke kan blive staaende, thi sig selv er den altid nok, og den, der har tabt den, det vil sige saaledes som den kun kan tabes, ikke som det maaskee behager ham at ville have tabt den, ɔ: ved Skyld, han vil vel ikke falde paa at anprise sin Fuldkommenhed paa Uskyldighedens Bekostning.
 Fortællingen i Genesis giver nu ogsaa den rigtige Forklaring af Uskyldighed. Uskyldighed er Uvidenhed. Den er ingenlunde det Umiddelbares rene Væren, men den er Uvidenhed. At man, naar man udenfra betragter Uvidenheden, seer den bestemmet hen til Viden, er noget, som aldeles ikke vedkommer Uvidenheden.
 Det er vel indlysende, at denne Opfattelse ikke forskylder en Pelagianisme. Slægten har sin Historie, i denne har Syndigheden sin continuerlige quantitative Bestemmethed, men Uskyldigheden tabes bestandig kun ved Individets qualitative Spring. At denne Syndighed, som er Slægtens Progres, i den Enkelte, der i sin Akt overtager den, kan vise sig som større eller mindre Disposition, er vel sandt, men dette er et Mere eller Mindre, en quantitativ Bestemmen, der ikke constituerer Begrebet Skyld.

 どこでもそうであるように、ここでも妥当することは、人が今日教義学的規定を持とうとするなら、ヘーゲルが教義学を助けるために発見したことを忘れるということによって始めなければならないということである。それにしてもおかしな感じをさせられるのは、上記のようでない場合(通常)はどうにか正統的であることを願う教義学者が、この点でヘーゲルの好んだ言葉を引用しているのを見ることである。即ち、彼らは直接性と無垢が全く同一的であるかのように、直接性の規定は廃棄[揚棄]されるべきだとするのである(※)。ヘーゲルは全く徹底的にどの教義学的概念もまさにひどく発散させてしまったので、それは論理的なものに対する才気に満ちた表現としてみすぼらしい存在の露命を繋いでいるのである。直接的なものが廃棄[揚棄]されなければならないということひとはそれを言うのにヘーゲルを必要としない。またヘーゲルはそれを述べたという不滅の功績を持っているのでもない。なぜなら、それは論理的に考えて正確ですらもないからである。というのは、直接的なものは、決して現存していないのだから、廃棄[揚棄]されるはずがないのである。直接性の概念は、論理学に属する。しかし無垢の概念は倫理学に属する。そして各々の概念は、その概念が属するところの学問から語られなければならない。概念が学問に属する仕方が、そこで展開されるようであるにせよ、或いは前提されることによって展開されるようであるにせよである。
 さて、無垢は廃棄されなければならないと語ることは非倫理的であるというのは、たとえ無垢が、それが言われる瞬間において実際に廃棄されているとしても、無垢がただ罪責によってのみ廃棄されうるということを忘れるのを、倫理学は禁じるからである。それ故に人が直接性について語るかのように無垢について語り、そしてこの最もはかないものを消滅させるほど論理的に厚かましく粗野であるか、或いはそれが何であったかということ及びそれが消滅したということに関して審美的に感傷的であるなら、その者はただ才気に満ちているだけであり、そして要点を忘れているのである。
 アダムが罪責によって無垢を失ったように、そうした仕方で各々の人間がそれを失うのである。彼がそれを失ったのが、罪責によってでなかったなら、彼が失ったのは、無垢ですらなかったであろう。そして彼が罪責的な者となる前に無垢でなかったなら、彼は決して罪責的な者とはならなかったであろう。
[中略]
 もしアダムが罪を犯さなかったなら、何が起こっただろうか、と検討することに、人が非常に屡々教義学と倫理学、そして自分自身の時間を無駄に遣ったとき、それが示しているのは単に、彼らが正しくない趣と、そしてそれ故にまた正しくない概念を携えているということである。無垢な者は、そのように問うことを思いつくことに陥ることは決してありえない。しかし、もし罪責ある者がそのように問うとき、彼は罪を犯している。というのは、彼はその審美的な好奇心の中で、彼自身が罪責性を世にもたらしたということ、罪責によって自ら無垢を失ったということを、無視しようとしているからだ。
 それ故に、無垢は、直接的なもののように、廃棄[揚棄]されなければならない何か、その規定が廃棄[揚棄]されることである何か――もともと現存しなくて、それが廃棄[揚棄]されたことによって、そのことを通じて自ら初めて、そしてその場合に初めて、それが廃棄[揚棄]される前にあったところのそれとして、そして今は廃棄[揚棄]されているところのそれとして現成するというような何か――ではないのである。直接性は間接性によって廃棄[揚棄]されるのではないが、間接性が現れることによって、その同じ瞬間に間接性が直接性を廃棄[揚棄]したのである。それ故に、直接性の廃棄[揚棄]は直接性の中での或る内在的運動、或いは逆方向での間接性の中での内在的運動であり、そのことによって間接性は直接性を前提しているのだ。無垢とは、超越によって廃棄される或るものである。無垢がまさに或るものであるからこそ(そうである一方で、直接性についての最も正しい表現は、ヘーゲルが純粋有について用いているもの、即ち無である)、それ故にまた無垢が超越によって廃棄された時に、全く別のものがそこから生ずるのだ。その一方で、間接性はまさに直接性である。無垢は質である。無垢は充分存立できる一つの状態である。そしてそれ故に、無垢を廃棄してしまうことに論理学が急ぐことは、何の意味もなさない。他方で、それは論理学においては、もう少し急ぐということを考えてみるべきである。というのは、急ぐことは、論理学ではいつも、それが急いだ時でも遅れるからである。無垢は、人が取り戻したいと望むべき完全性ではない。というのは、人がそれを望むや否や、それは失われているからであり、また、この場合、それは願望で時間を浪費することが或る新しい罪責だからである。無垢は、人がその下に立ち止まることができないというような不完全性ではない。というのは、無垢はいつも自分自身で充足しているからである。そして、無垢を失った者――それがただ一つ失われ得るような仕方、即ち罪責によってであって、それを失おうとしたということがおよそその者を喜ばせるようにしてではないという者――、その者は恐らく無垢の犠牲の上に自分の完全性を讃美するということに陥ることはないであろう。
 さて、創世記の物語もまた、無垢に関して正しい説明を与えている。無垢は無知であると。それは決して直接的なものの純粋有ではない。そうではなくて、それは無知である。ひとが無知を外部から観察するとき、ひとがそれを規定的に知の方向に向かって見て取るということは、無知には全く関連しないことである。
 この見解がペラギウス主義だという罪責に問われないということは、確かに明白である。人類はその歴史を持っている。この歴史において罪性は継続的な量的規定性を持っている。しかし、無垢は常に、ただ個人の質的飛躍によってのみ失われるのである。人類の進展であるこの罪性が、自分の行為の中でこの罪性を引き継ぐ各個人において、より大きな或いはより小さな配置として示されうるということは恐らく真実である。だが、これはより多い或いはより少ないということであり、罪責の概念を構成しない量的規定である。(『不安の概念』1章3節1-3・6-9段落目:強調は筆者)

 無垢と訳されるUskyldighedというデンマーク語の構成は、U-skyld-ig-hedで、この場合、責め・罪責・咎・有責等を意味する名詞Skyldに「否定」を意味する接頭辞u-、形容詞化する接尾辞-ig、更に共性抽象名詞化する接尾辞-hedがついた名詞である。つまり、語の構成上は責め無し・罪無し・咎無し・無責性を意味する。UskyldighedはSkyldighed(責め有り・罪有り・咎有り・有責性・罪責性etc)と質的に異なるものとして議論が進められていく。

 さて、難解なのは、この議論と並行して語られているヘーゲルないしヘーゲル学徒に対するハウフニエンシスの批判の内容であろう。『不安の概念』という書物は、ハウフニエンシスの批判対象者たち(ヘーゲルないし当時のデンマークにおけるヘーゲル学徒)と同じ用語や形式を用いながら、その見かけ上の合致とは裏腹に、その思考の前提と目標並びに方法についてはその批判対象者たちとは全く一致を見ないという記述方法がとられている。ハウフニエンシスにとってヘーゲル弁証法における三幅対は、彼が「内在的運動」と名づけたところのものとして受容しうる成形を代表しているというようなものではない。このことについて特に強調しておかなければならない。ヘーゲル弁証法は、ハウフニエンシスにとって全く受容し得ないものであり、混乱を引き起こす退歩であって、徹底的に破壊されなければならないものであった。ハウフニエンシスが『不安の概念』で仕上げた心理学[=実存的反省]から判断すると、ヘーゲルないしヘーゲル学徒の思弁は、前提と目標並びに方法に関して不当なのである。

 ハウフニエンシスにおいて直接的なものは無垢とは違って本来的には現存しない(無垢は本来的に存立できる)。「現存しないものを廃棄[揚棄]する」というのは論理的に考えて正確でない。だから「直接的なものは廃棄[揚棄]されるべきだというのはおかしいのである。「無垢は、直接的なもののように、廃棄[揚棄]されなければならない何か、その規定が廃棄[揚棄]されることである何か――もともと現存しなくて、それが廃棄[揚棄]されたことによって、そのことを通じて自ら初めて、そしてその場合に初めて、それが廃棄[揚棄]される前にあったところのそれとして、そして今は廃棄[揚棄]されているところのそれとして現成するというような何か――ではないのである」と言われている個所は、何を言っているのか読み取りにくい(原文も大変難しい)が、以上の論理的におかしいことをそのまま敢えてまとめて表記している。そもそも無垢の概念は倫理学に属するものだから倫理学的に扱われなければならないのであり、論理学に属する直接的なもののように論理学的に扱われてはならないのである。

 そして、ことはこれだけではおさまらない。ハウフニエンシスは彼の批判対象者たちが無垢を直接的なものと同一視して「無垢は廃棄されなければならない(at Uskyldigheden maa ophæves)」と語ること自体に含まれている非倫理性を指摘して糾弾する。デンマーク語ophæveは、通常は廃棄する・解くの意であるが、デンマークヘーゲル学徒はヘーゲルの用いた揚げ、棄て、止めるという彼の弁証法的な意味を持つドイツ語aufhebenをophæveにあてて使っている。ただし、デンマーク語にはもともとこのような使い分けはない。ヘーゲル自身がこのaufhebenを用いる時には場合によって「揚棄」と「廃棄」の両方の意味で使われていることがあることにも注意しなければならない。そしてハウフニエンシスはもとより、無垢は倫理学的に扱われなければならないのであって論理学的に扱ってはならないとしているので、ヘーゲル弁証法におけるaufhebenという語の運用方法が無垢については適用されない。従って、試みに以上の訳においては、動詞ophæveが無垢に関わる場合には「廃棄する」とのみ記し、直接的なものに関わる場合には「廃棄[揚棄]する」と記してみた。邦訳の中には全て「止揚」で統一しているものがあるのだが、それでは無垢に関してハウフニエンシスがophæveという語の元来の意味で用いていることが通らなくなると思われる。文脈を見てもわかる通り、「無垢が廃棄される」ということは「無垢が失われる」ということと同義であって、だからだから無垢は「廃棄[揚棄]されていることで現成する何かではない」のだ。そしてこの「無垢の廃棄」=「無垢の喪失」は「罪責」(Skyld)という「超越(Transcendents)」によってのみなされる(だから「無垢は廃棄されなければならない」と語ることは非倫理的なのである)。この罪責という超越は先に触れておいた「質的飛躍(det qualitative Spring)」と同義語であり、「無垢(無責性:Uskyldigheden)という質から罪責性(有責性:Skyldigheden)という質への移行(Overgang)」のことである。ここで質的飛躍をさして超越という言葉が同義異語として用いられるのは、ヘーゲル弁証法において「直接性が間接性ないし反省によって廃棄[揚棄]される」と言われることについて、それが単に名目的な間接性を直接性に向かっての逆方向において直接性の中で動かしているだけに過ぎず、結局それは質的飛躍=移行を起こさない内在的運動に過ぎないということと対義であることを表すためである。無垢は、「直接的なものの純粋有=「無」」とは異なる「或るもの」、またこの内在的運動とは対義的に、超越によって否定される「或るもの」なのである。無垢(無責性)が罪責という超越=質的飛躍=移行をなすことによって全く質の異なる罪責性が生じるのである。ここでまたしても注意しなければならないのは、ここでの「純粋有」と「無」という用語の用いられ方である。これは後々第三章にて明るみになることであり、前ブログでも若干述べておいたが、ハウフニエンシスの『不安の概念』において「純粋有」及び「無」という用語は、ヘーゲルのそれに則った言い方がされる場合(それは否定的に扱われる)と、ハウフニエンシスが同じ語でそれとは全く異なる意味で用いる場合とがある。ここでの記述における「純粋有」=「無」はあくまでもヘーゲルの思弁における意味での「直接的なものの純粋有=「無」」であって、ハウフニエンシスが善としての自由の精神ないし救済の理念そのものとして扱っている「純粋有」ないしその様相的な姿としての「無」ではない(このことは後々触れることになる)。そして、無垢は規定的に知の方向に向かって見て取るべき「直接的なものの純粋有=「無」」ではない。無垢は聖書が教えるように「無知」であるということをハウフニエンシスは言っているのである。そして以上の「無垢」の概念の説明が全て、前ブログ(前節「「最初の罪」の概念及び前々節「宿罪の概念に関する歴史的暗示」)で言われたことに重ねて関連付けられる形で、即ち、「アダム及びのちの各個人において同じように罪性が世に来たるということ、即ち、人類の罪性が歴史を持ち、量的規定の内に進む一方で、同時に各個人は「質的飛躍(det qualitative Spring)」によって歴史に関与し、人類として初めから始める」ということに絡められて、第三節「無垢の概念」は閉じられるのである。ハウフニエンシスはこの締め括りのなかで、ヘーゲルないしヘーゲル学徒たちがヘーゲル弁証法ないし論理学を、本来倫理学に属する無垢の概念に適用することによる罪の量的増大をも重ね合わせてみているのである。
 

【註】
ニールス・トゥルストルプに従えば、ハウフニエンシス=キェルケゴールはここでヘーゲルにおける数多の箇所を考えている。この註によると、ヘーゲル学徒が「直接性と無垢が全く同一的であるかのように、直接性の規定は揚棄されるべきだ」としたところに対応する「ヘーゲルの好んだ言葉」は、たとえば「人間は直接的であるものに止まるべきではなくて、この直接性を越えて出るべきである」(ヘーゲル宗教哲学』旧版ヘーゲル全集Ⅻ259f.)や、「もし堕罪の神話を詳しく観察するなら、我々は……そこに認識の精神生活に対する一般的な関係が表現されているのを見出す。精神生活はその直接性においてまず無垢及び偏見のない信頼として現れる。さてしかし、この直接的な状態が揚棄されるということが精神の本質の中に存する、なぜなら、精神生活は、それがその即自(Ansichseyn)の中に止っていないで対自(für sich)であるということを通じて自然的生存、そしてより詳しくは、動物の生活から区別されるからである。分離のこの立場は次に同じように揚棄される。そして精神は自らを通じて統一に帰還すべきである」などの記述が参照例として挙げられている。

 

【参考文献】

Søren Kierkegaards Skrfter(セーレン・キェルケゴールデンマーク語原文が読めるサイトです)

Begrebet Angest 1844(『不安の概念』独訳:Thomas Sören Hoffmann 編„Der Begriff Angst“/„Die Krankheit zum Tode“ marixverlag 2011 邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳 )

大谷長 著『キェルケゴールにおける自由と非自由創文社 1977

ニェルス・トゥルストルプ 著 大谷長監訳『キェルケゴールヘーゲルへの関係』東方出版 1980

加藤尚武・久保陽一・幸津國生・高山守・滝口清栄・山口誠一『縮刷版 ヘーゲル事典』弘文堂 2014

聖書ウィキソースで全文読めます。)