ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート③-

 [キェルケゴールは]伝統的な教義的解釈たるアダムの根源正義と堕罪による宿罪の理解から離れて立っているというエマニュエル・ヒルシュの指摘はもっともであり、『不安の概念』を理解しようとする人々は、屡々伝承的な教義学の立場に立ったままでキェルケゴールの言葉を理解しようとするために、叙述の事情がよくわからなくなってしまっていることが多い。したがって人は、伝統的な教義学的立場及び歴史的な解釈から一歩退いてキェルケゴール自身に付き従うという用意がなければならない――もしも『不安の概念』に盛られている自由の概念を理解しようとするならば。(大谷長『キェルケゴールにおける自由と非自由』p.180)

 

3.宿罪の相互対論的両義性についての概観⑴-第一章1~2節まで-

 前ブログでも若干述べておいたが、ハウフニエンシスは、伝統的なキリスト教教義が「アダムは堕罪の前に神の似姿に応じた根源正義を所有していたが、これが堕罪によって失われ、宿罪の下に置かれる人類の状態が生じた」とするところの解釈をとらない。彼はむしろそうした解釈を「空想的前提」と呼んで斥ける立場を取る。宿罪についての諸説はハウフニエンシスにとっては孫引き程度でよいものとして扱われている。また、ハウフニエンシスにとって、アダムの罪の結果としての罪性からのみ見るという方向だけでは、「宿罪を説明する」ということにはならない。では「宿罪を説明する」とはどういうことか。そのアウトラインを書いておこう。

 ハウフニエンシスはまず、この当の「宿罪(Arvesynd=遺伝的罪)」概念と「第一の罪(den første Synd)」、「アダムの罪(Adams Synd」、「無垢(Uskyldighed=無責)」、「堕罪(Syndefald)」の各概念との関係(そして、ここではなく後々触れる必要になることではあるが、更にはそれらと、最初からすでに内包されている「贖罪(Forsoning」概念の説明との関係)を究明し、そこから宿罪の発生を心理学[=実存的反省]的に跡づけ得るキーとしての「不安(Angest)」の概念を見出し説明する。このアウトラインは、1及び同章の6節のタイトルである「宿罪の前提条件としての、及び宿罪をその根源の方向で逆進的に説明するものとしての不安(Angest, som Arvesyndens Forudsætning og som forklarende Arvesynden retrogradt i Retning af dens Oprindelse)」と、その内部にある15節のタイトルの並び順、及び第二章のタイトルである「宿罪を前進的に[説明するもの]としての不安(Angest som forklarendeArvesynden progressivt)」とその内部にある12節のタイトルからも読み取れる。大谷長はこれをひっくるめて、ハウフニエンシスが行った、「罪の生成について、不安概念を用いて心理学的解明を意図して、人類の歴史の最初の事件としてのアダムの罪と、後の個人における罪の発生について展開した逆進的-前進的、客観的-主観(主体)的(retrogradt - progressivt, objektiv - subjektiv)説明」と言っている(大谷長『キェルケゴールにおける自由と非自由p.195)。例によってキェルケゴール特有の相互対論的両義性を汲み取っての表記方法であると思われる。さてそれではハウフニエンシス自身の記述に沿ってこの「宿罪を説明する」ということがどういうことかを追ってみることにしよう。

 

 Hvorledes man da end stiller Problemet, saasnart Adam kommer phantastisk udenfor, er Alt forvirret. At forklare Adams Synd er derfor at forklare Arvesynden, og ingen Forklaring hjælper Noget, der vil forklare Adam, men ikke Arvesynden, eller vil forklare Arvesynden, men ikke Adam. Dette har sin dybeste Grund i, hvad der er det Væsentlige i den menneskelige Existents, at Mennesket er Individuum og som saadant paa eengang sig selv og hele Slægten, saaledes, at hele Slægten participerer i Individet og Individet i hele Slægten.

 さて、ひとがどのように問題を拵えようとも、アダムが空想的に[人類の]外側に立つとすぐに、全てが紛糾した。アダムの罪を説明するということは、それ故に宿罪[=遺伝的罪]を説明するということである。そして、アダムを説明しようとするが宿罪[=遺伝的罪]を説明しない説明、或いは宿罪[=遺伝的罪]を説明しようとするがアダムを説明しない説明は何の役にも立たない。このことの最も深い原因は、人間が個人であり、そしてそのようなものとして、自分自身であると同時に全人類であるということ、しかも、全人類が個人に参与しそして個人が全人類に参与するということが、人間の生存の中で最も本質的なものだということにある(『不安の概念』第1章第1節4段落目、強調は筆者)。

 

 アダムの罪を説明しようとすることは、アダムを人類及び人類の歴史の外に立たせるようなことを作為的にしない限り、そのまま宿罪[=遺伝的罪]を説明するということである。人類の始祖とされるアダムを、人類及び人類の歴史の内に入れて彼の罪を説明するという意味で、宿罪[=遺伝的罪]を説明しなければならない。なぜなら(『不安の概念』の第1章第1節をお読みになったことのある方のなかで、ハウフニエンシスが記述したことをありていに読むことができる方なら既にご承知のことだと思うが)、アダムを人類及び人類の歴史の外に立たせるとすぐに紛糾が生じるからである。人間が個人として自分自身であると同時に全人類であるということ、これはアダムにおいても同じなのだ。そうであるからこそ、アダムの罪は宿罪[=遺伝的罪]の意味を持つ。宿罪[=遺伝的罪]という語義をありていに捉えることによっても、宿罪[=遺伝的罪]を、個人が、アダムへの関係を通じてのみ関連するようなものとして考えると、アダム及びアダムの罪は、たちまち人類及び人類の歴史とは無関係なものになるということからして、宿罪[=遺伝的罪]という語が語義矛盾を起こすことになるということが見て取れるであろう。アダムの第一の罪が人類及び人類の歴史の中で意義を持つ以上は、第一の罪は宿罪[=遺伝的罪]と同じである。個人が罪に対するその直接根源的な関係を通じて宿罪[=遺伝的罪]に関連するところに「第一の罪」の意義がある。

 

 At den første Synd betyder noget Andet end en Synd (ɔ: en Synd som flere andre), noget Andet end een Synd (ɔ: Nr. 1 i Forhold til Nr. 2), indsees let. Den første Synd er Qualitetens Bestemmelse, den første Synd er Synden. Denne er det Førstes Hemmelighed og dets Forargelse for den abstrakte Forstandighed, der mener, at een Gang er ingen Gang, men mange Gange er Noget, hvilket er aldeles bagvendt, da de mange Gange enten betyder hver især ligesaa meget som den første Gang, eller tilsammen ikke nær saa meget. Det er derfor en Overtro, naar man i Logiken vil mene, at der ved en fortsat quantitativ Bestemmen fremkommer en ny Qualitet; det er en utilgivelig Reticents, naar man vel ikke lægger Skjul paa, at det ikke gaaer ganske saaledes til, men skjuler Følgen deraf for hele den logiske Immanents ved at sige det med ind i den logiske Bevægelse, som Hegel gjør det. Den ny Qualitet fremkommer med det Første, med Springet, med det Gaadefuldes Pludselighed.

  最初の罪は罪(即ち他の多くのような或る罪)から何か異なったものを意味し、一つの罪(即ち二番への関係における一番)からも何か異なったものを意味するということは、簡単に理解される。最初の罪とは質の規定である。最初の罪とは罪そのものなのである。これが最初ということの秘密であり、そして抽象的分別に対するその躓きである。この抽象的分別が考えているのは、一度ということは一度きりではない、そうではなくて、幾度もということこそが何ものかなのだ、ということである。これは全くのあべこべである。なぜなら、幾度もということは、その度毎に最初の一度と同じことを意味するか、或いは全部ひっくるめても最初の一度とはそんなに近似しないということを意味するかだからである。それ故に、もし人が論理学において、継続された量的規定によって或る新たな質が現れると考えようとするならば、それは思い込みである。もし、それが現に全くその通りに行かないということをひとが隠したりしないとしても、ヘーゲルがしているように、それを論理的運動の中に取り入れると語ることによって、論理的内在の全体に対してそれに応じた結果を隠すことは、許し難い黙殺である。新たな質は、最初のものによって、飛躍によって、謎に満ちたものの突発性によって、現れるのだ(『不安の概念』第1章第2節2段落目:強調は筆者)

 

 第一の罪=宿罪[=遺伝的罪]ということでは、アダム及びのちの各個人において同じように罪性が世に来たるということ、即ち、人類の罪性が歴史を持ち、量的規定の内に進む一方で、同時に各個人は「質的飛躍(det qualitative Spring)」によって歴史に関与し、人類として初めから始める、ということが言われなければならない。第一の罪=宿罪[=遺伝的罪]は「罪そのもの」であり、その本質は時間的前後や経過、及び大小の「量(Quantitet)」ではなくて「質(Qualitet」である。「質」ということでハウフニエンシスは、「特別な性質」、「或る現象とその概念を他から区別する特性」を言い表している。質的飛躍は、異なった質の間での、或る質から他の質への移行(Overgang)を意味する。ハウフニエンシスはここで、ヘーゲルに対して、「ヘーゲルの質概念も質的飛躍の主張を含んでいるが、ヘーゲルはその説明の中で質的仕組と飛躍に背を向けてしまっている」という批判を加えて自分の立場を表すのである。

 以上の意味で、アダムの罪=第一の罪=宿罪[=遺伝的罪]への質的飛躍は、「飛躍の弾力性」を持つ最初のもの、突発性を有する謎に満ちたものであるところの、アダムにおける無の不安の「非-自由」性によって生じるのである。

 

【参考文献】

Søren Kierkegaards Skrfter(セーレン・キェルケゴールデンマーク語原文が読めるサイトです)

Begrebet Angest 1844(『不安の概念』独訳:Thomas Sören Hoffmann 編„Der Begriff Angst“/„Die Krankheit zum Tode“ marixverlag 2011 邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳)

■大谷長 著『キェルケゴールにおける自由と非自由創文社 1977

■ニェルス・トゥルストルプ 著 大谷長監訳『キェルケゴールヘーゲルへの関係』東方出版 1980

聖書ウィキソースで全文読めます。)