アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート➃

[…]Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nødvendighed, kort en Synthese. En Synthese er et Forhold mellem To. Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv.

I Forholdet mellem To er Forholdet det Tredie som negativ Eenhed, og de To forholde sig til Forholdet, og i Forholdet til Forholdet; saaledes er under Bestemmelsen Sjel Forholdet mellem Sjel og Legeme et Forhold. Forholder derimod Forholdet sig til sig selv, saa er dette Forhold det positive Tredie, og dette er Selvet.デンマーク語原文)

[…]Der Mensch ist eine Synthese von Unendlichkeit und Endlichkeit, vom Zeitlichen und Ewigen, von Freiheit und Norwendigkeit, kurz eine Synthese. Eine Synthese ist ein Verhältnis zwischen zweien. So betrachtet ist der Mensch noch kein Selbst.

In dem Verhältnis zwischen zweien ist als negative Einheit das Verhältnis das Dritte, und die zwei verhalten sich zum Verhältnis, und im Verhältnis zum Verhältnis, so ist unter der Bestimmung Seele das Verhältnis zwischen Seele und Leib ein Verhältnis. Verhält sich dagegen das Verhältnis zu sich selbst, so ist dieses Verahältnis das positive Dritte, und dies ist das Selbst.(トーマス・セーレン・ホフマンによるドイツ語訳)

[…]人間とは、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合、要するに或る綜合である。或る綜合とは、或る二つのものの間の関係である。このように観察するのでは人間はまだ自己ではない。

 二つのものの間の関係においては、その関係そのものは消極的[=否定的]統一としての第三者である。それら二つのものは、その関係に関係する。然して、その関係においてその関係に関係するのである。このようであるのが、魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係である¹⁾。それに対して、その関係がそれ自身に関係するという場合は、この関係は積極的な第三者である。然して、これが自己である。(拙訳)


消極的[=否定的]統一としての第三者について

無限性と有限性、永遠なもの(永遠性)と時間的なもの(時間性)、自由(ここでは可能性に同義)と必然性という各々の二項及びその二項間の関係である綜合は、神:人間における二項及びその二項間の関係が問題となるときに付随する問題系であり、それらは同じ神:人間のことを別の側面から見た様相である。

| 神 |:| 人 |

|無限性|:|有限性|

|可能性|:|必然性|

|永遠性|:|時間性|

 しかし、そのすぐ後に続いているように、この「神:人間」の様相である各々の二項及びその関係は、それだけでみるならば、人間は何ら自己ではないと言われる。「神:人間」の様相である各々の二項関係において、その関係そのものは消極的(否定的)統一としての第三者であると言われるが、これは神:人間、無限性:有限性、自由(可能性):必然性、永遠性:時間性等、当の二つの関係項及びその二項間の関係のほうが第一義的である場合には、二項の関係そのもの(つまりそれも一応は精神でありまた一応は自己であるのだが)外面的な事柄に過ぎないという意味である。言い回し方が難渋ではあるが、二項が「その関係に関係する。然して、その関係においてその関係に関係する」というのも、消極的[=否定的統一(綜合)という関係そのものとしての第三者と各々の二項がそれに関係していることを述べているという点において言っていることは同じである。つまり単なるトートロジーである。

 ただし、ここで一つ厄介な点がある。それはこの後に続いて「このようであるのが、魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係である」と言われている個所である。「魂という規定の下」というところの「魂」は、前ブログの「⑴キェルケゴールの「精神」について」で記しておいたrûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)と対比されるところの、あのnepheš - psychē - Sjel - Seele – 魂である。キリスト教は心身(魂と肉体の)二元論も霊・魂・肉体の三元論も取らず、霊肉二元論をとっているということは既に同じところで述べておいた。この二元論から、魂という規定の下での魂と肉体においては「神:人間」の領域が問題になっているのではなく、単に人間の領域が問題になっているとみなければならない。魂と肉体は、有限性の領域に関わることなのである。このことをキェルケゴールはnegativ(消極的[=否定的])という言葉に含めて言い表した。というのは、キェルケゴールの言語使用においては有限性は常に否定性のもとに帰すからである。

 そしてさらにややこしいのは、この「魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係」といったところの「関係そのもの」である消極的[=否定的]統一としての精神は、この魂と肉体を綜合するだけでなく、一応は自己であるが厳密には「まだ自己ではない」といわれるところの「無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合」も同時に定立するということである。このことはキェルケゴールの別の仮名著作である『不安の概念』に記されている。『不安の概念』には、今しがた述べた外面的な事柄である消極的[=否定的]統一としての第三者たる、関係そのものとしての精神ないし自己を問題にしている側面がある。以下はこのことについての引用と訳出である。

 『不安の概念』第三章には次のように問いが立てられている。

 Mennesket var altsaa en Synthese af Sjel og Legeme, men er tillige en Synthese af det Timelige og det Evige.[…]Hvad den sidste Synthese angaaer, da er det strax paafaldende, at den er dannet anderledes end den første. I den første var Sjel og Legeme Synthesens tvende Momenter, og Aanden det Tredie, dog saaledes, at der først egentlig var Tale om Synthesen idet Aanden sattes. Den anden Synthese har kun to Momenter: det Timelige og det Evige. Hvor er her det Tredie?デンマーク語原文)

 人間は従って魂と肉体の綜合であった。しかしまた時間的なものと永遠なものの綜合である。[…]この最後の綜合に関しては、それが最初のそれとは異なってつくられているということ、そのことがすぐに目を引く。最初には魂と肉体が綜合の二つの契機であり、そして精神が第三者であった。しかし、精神が定立されることによって初めて実際に綜合について問題になったというようにである。もう一つの綜合は、ただ時間的なものと永遠なものという二つの契機のみを持っている。第三者はこの場合どこにあるのであろうか?」(拙訳)

 この問いに対する答えは同じ三章において次のように記述されている。

 Synthesen af det Timelige og det Evige er ikke en anden Synthese, men Udtrykket for hiin første Synthese, ifølge hvilken Mennesket er en Synthese af Sjel og Legeme, der bæres af Aand. Saasnart Aanden er sat, er Øieblikket der.

 時間的なものと永遠なものの綜合は第二の綜合なのではない。そうではなくて、人間が精神によって支えられている魂と肉体との綜合であるという、あの第一の綜合に対する表現である。精神が定立されるや否や、瞬間がそこにある。(拙訳)


 Øieblikket er hiint Tvetydige, hvori Tiden og Evigheden berøre hinanden, og hermed er Begrebet Timelighed sat, hvor Tiden bestandig afskærer Evigheden og Evigheden bestandig gjennemtrænger Tiden.

 瞬間とは、その中で時間と永遠が互いに接触する、あの両義的なものである。そして、その中で時間が永遠を常に切り取り、永遠が常に時間に滲透する、時間性という概念が定立されている。(拙訳)

 

 Synthesen af det Sjelelige og det Legemlige skal sættes af Aand, men Aanden er det Evige, og er først derfor, naar Aanden sætter den første Synthese tillige som den anden Synthese af det Timelige og det Evige. デンマーク語原文)

 魂的なものと肉体的なものの綜合は、精神によって定立されるべきである。しかし精神は永遠なものである。綜合はそれ故に、精神が第一の綜合を同時に、時間的なものと永遠なものの第二の綜合と同様に定立する時に初めて在るのである。(拙訳)

 

 この消極的[=否定的]統一を契機として、その関係そのものとしての精神ないし自己において、有限性の領域である魂と肉体が綜合されると同時に、「神:人」の綜合がなされ、その関係がそれ自身に関係するという動きを持つ次元へと移行すると、積極的第三者としての精神ないし自己の次元に移行するのである。