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アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート③

 Mennesket er Aand. Men hvad er Aand? Aand er Selvet. Men hvad er Selvet? Selvet er et Forhold, der forholder sig til sig selv, eller er det i Forholdet, at Forholdet forholder sig til sig selv; Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nødvendighed, kort en Synthese. En Synthese er et Forhold mellem To. Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv.(デンマーク語原文)

 

 Der Mensch ist Geist. Aber was ist Geist? Geist ist das Selbst. Aber was ist das Selbst? Das Selbst ist ein Verhältnis, das sich zu sich selbst verhält, oder ist das im Verhältnis, daß sich das Verhältnis zu sich selbst verhält; das Selbst ist nicht das Verhältnis, sondern daß sich das Verhältnis zu sich selbst verhält. Der Mensch ist eine Synthese von Unendlichkeit und Endlichkeit, vom Zeitlichen und Ewigen, von Freiheit und Norwendigkeit, kurz eine Synthese. Eine Synthese ist ein Verhältnis zwischen zweien. So betrachtet ist der Mensch noch kein Selbst.(トーマス・セーレン・ホフマンによるドイツ語の逐語訳)

 

 人間とは精神¹⁾である。しかし精神とは何であるか?精神とは自己²⁾である。しかし自己とは何であるか?自己とは、その関係がそれ自身に関係するという或る関係である。或いは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するという[その動きの]ことである。自己とは、その関係ではなく、その関係がそれ自身に関係するという[その動きの]ことなのである³⁾。人間とは、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合、要するに或る綜合である。或る綜合とは、或る二つのものの間の関係である。このように観察するのでは人間はまだ自己ではない。(拙訳)

  

⑴キェルケゴールの「精神」について
 精神と訳されているデンマーク語のAand(現代ではÅnd)は、語源的にはラテン語のanima(息とか空気)、animus(心)と関連し、また、ギリシャ語のánemos(風)と関連している。しかしキェルケゴールは、むしろキリスト教の伝統に根差して、Aandを聖書におけるヘブライ語のrûah(ルーアハ)及びそこから受け継がれたギリシャ語のpneuma(プネウマ)に対応させている。ドイツ語訳ではもちろんGeistと訳されるが、キェルケゴールの訳の場合、このGeistもその理解に則って理解されねばならない。このrûah及びpneumaは、それぞれ聖書においてはヘブライ語のnepheš(ネフェシュ)及びそれから受け継がれたギリシャ語のpsychē(プシュケー)と相互対の関係にある。この語について対応させられているデンマーク語はSjel(魂・心)であり、ドイツ語訳ではSeeleがこれに当てられている。rûah - pneuma - Aand - Geist及びnepheš - psychē - Sjel - Seeleは、日本語訳聖書ではそれぞれ「霊」と「魂(心)」と訳される。rûahは元来は「風」「息」といった意味であり、『創世記』第二章第七節で「主なる神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり。人即ち生靈となりぬ」と言われているときの、「生氣(命の息)」がこれに当たる。rûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)という語は、神と人間の関連(以下これを説明の便宜上「神:人間」と表記する)が問題となる場合に用いられ、nepheš - psychē - Sjel - Seele - 魂という語は、肉体(sarksないしsoma(身))と共に、人間自体が問題となる場合に用いられる。キリスト教においては魂(心)と肉体(身)の二元論(心身二元論)は存在しない。あるのは霊肉二元論である。魂は神の霊と呼応することができるが、肉体を離れるわけではない。キリスト教において語られる霊(精神)・魂(心)・肉体(身)は三元論ではないのである。このことから、「人間は精神である」という表現には「人間は霊的人間になる可能性を持った存在である」ということ、それに加えて、だからこそ「人間は、神の霊の働きかけによって、或いは、神の霊によって生かされる霊的人間へと絶えず生成すべきである」といった当為の意味を含めて考えなくてはならない。というのは「人間はrûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)である」と言われながら、キリスト教の観念において人間自体が問題となる場合には心身の関連の領域が問題であって、「神:人間」の領域が問題とならないからである。このように、「人間は精神である」とキェルケゴールが言うとき、そこには「人間は精神となるべきである」のだと言う当為の意味を含めて語っているのである。なぜなら人間は、自然な在り方で直ちに精神であるとは言えないからである。これは「神:人間」について真正であることの当為、つまり信仰が問われているのである。

 

⑵キェルケゴールの「自己」について
 キェルケゴールの「自己」の最も基本的なことは以下の三点である。

①自己とは派生的な措定されたものであるということ。
②自己とは常に絶えず生成するものであるということ。
③自己の存在の重さ。

①自己が何によって措定されているかと言えば、他者=神によってである。事実が真実であるのは神が機縁として働くからである。我々が勝手な思いで、言葉で分節化しながら生きているその一歩前に、永遠の生命=神は最初の御方として、機縁として、刻々と働いている。キェルケゴールの「自己」の概念を理解するにはまず、我々の全ての散漫な状態と神の機縁としての働きの別を徹底的に自覚しなければならない。

「何度も人生を通じて日毎、あなたは最初に私たちを愛される。私たちが朝目覚めて、あなたに思いを向ける時、――あなたは最初の御方であり、あなたは、まず私たちを愛される。たとえ私が夜明けに立ち上がって、祈りにおいて私の思いをあなたに向ける時でさえ、あなたは私にとってあまりにも先んじておられる。あなたが私をまず愛されるのだ。私が全ての三万から私の思いを集中しあなたを深く思うとき、あなたはまず最初の御方である。」(キェルケゴールの遺稿より。山下秀智『哲学書概説シリーズⅥ キェルケゴール『死に至る病』』p.28)

②自己は常に絶えず生成しつつある。それは「自己とは、その関係がそれ自身に関係するという或る関係」だからである。『死に至る病』で分析展開される種々の絶望状態にあってもこれは妥当しており、信仰状態にあっても変わりはない。特に信仰者になるとあたかもどこか陸地に到着したように考えるのは全くの間違いである。

「一体どれぐらいの人が、現実に神-関係を持つに至ると、人生が疲労困憊するものになるかということを理解しているだろうか。完全に習慣的な保証(日常的な安定)が奪われること(たいていの人はある年齢に達すると、彼らの成長も終息し、生活も単なる繰り返しになり、そう、殆ど定期的反復に過ぎなくなるのだが)、ただそのことが起こるのだ、そう、安定の保証が完全に奪われるのだ!その一方で、日常的な畏れと戦きが、毎日毎日、またその日の全ての瞬間、最大の重要性を持つ決断の内へと入り込むのである――正確に言えば、全ての精神の-実存(enhver Aands-Existents)は、「七万尋の水上」に存在するのだから、こうした畏れと戦きの場に生きることになるのだ。」(キェルケゴールの遺稿より。山下秀智『哲学書概説シリーズⅥ キェルケゴール『死に至る病』』p.30)

③自己の存在の重みは、「神の前に立つ単独者」というキェルケゴールがよく使う表現に現れている。単独者の原語はden Enkelteであるが、この語は、日本語で単独者といった場合に見て取れてしまうような、独我論的な意味を含んだ強い自意識を持った存在といったニュアンスを全く持っていない。それはキェルケゴールの考えているニュアンスとは全く異なっていることに注意しなければならない。キェルケゴールの自己は、隔離された絶海の孤島にいるのではない。大海の一滴でありながら、海を構成している掛替えのない存在、それがこのden Enkelteであり、永遠の生命=神との関係を自覚した存在というのが、その本来の意味である。キェルケゴールは、ただ信仰者の信仰の飛躍の敢行においてのみ、神は人間にとって現実性となるとする。この飛躍以前には、神は現実には人間にとって実存せず、神はただ抽象的な可能性に過ぎない。言い換えれば、この飛躍以前には、内在的に(抽象の想像的媒介において)、神は実存しないし、現存しない。実存する人格が信仰を持たないなら、その人間にとって神は存在しないし、現存しないというわけである。『マタイによる福音書』8章13節には「行け、汝の信ずるが如く汝に成れ」、同9章29節には「汝らの信ずるが如く汝らに成れ」とあるが、キェルケゴールはまさにこれを参照しながら『死に至る病』の第二部第二章「罪のソクラテスの定義」で「汝らの信ずるが如く汝らに成れ」という言葉を、「汝の信ずるが如く、汝は在る」「信ずることが存在することである」と言い換えている。そして同じところで彼はこれをデカルトの有名な命題「私は考える、ゆえに私は在る」→「考えることが存在することである」と対立させている。これは更に、「神が天に在ますが故に、信ずることができる」、ということと合わせてみる必要がある。キェルケゴールによれば、神は人間に無限に近く、同時にまた、無限に遠い。デカルトはレス・コギスタンスとしての主体を確立して神の存在証明に向かったが、キェルケゴールはこうした証明を全く認めなかった。絶望の原語であるFortvivlelseには懐疑ないし不信を意味するTvivlが含まれている。デカルトのレス・コギスタンスとしての主体では、神によって刻々と創造せられつつあるにもかかわらず(その意味では、神は近いというよりも自己に即している)、その根本地盤を離陸してしまう。だからそうなると、生ける神は無限に遠くなり、信仰からも程遠くなってしまい、神もまたその働きようがなく、存在しないも同然になってしまうのである。これはキリスト者であることがいかに重い責任があるかを証し、同時にそのことで自己の存在の重みを証するものなのである。

 

⑶文法・訳文解説

1⃣最初の一文におけるsig selv=sich selbstのsig=sichは、関係文の主語をなす関係代名詞der=dasの再帰代名詞である。この関係代名詞der=dasは主文の述語であるet Forhold=ein Verhältnisを先行詞としているから、関係代名詞der=dasの再帰代名詞であるsig selv=sich selbstのsig=sichは「関係」にあたる。

2⃣elleroder以下のer det i Forholdet, at …ist das im Verhältnis, daß …においては、detdasatdaß節以下の文の先行詞である。したがって、「自己とは、その関係において、atdaß節以下ということである=Forholdet forholder sig til sig selvsich das Verhältnis zu sich selbst verhält=その関係がそれ自身に関係するということである」となる。

3⃣著者が「自己とは何か?」ということに対する回答として強調したいのは、ただ単に名詞で表されるところの「その関係」ではなく、「Forholdet forholder sig til sig selv=sich das Verhältnis zu sich selbst verhält=その関係が関係自身に関係する」というその動きそのもののことであるから、「その動きの」と補填した。「その関係がそれ自身に関係するという或る関係」というのは運動概念であることを三度繰り返し別の言い方で強調しているのである。これは外面的な出来事ないし行為ではなく、内面的に行為することであり、内面性の事柄である。言い換えると「自己意識すること」=「自己自身を反省すること」である。「この自己意識は観照ではない。というのは、そう信じている者は自分自身を理解しなかったのである。なぜなら、彼は、自分自身同時に生成の中におり、それ故に観照のために完結したものでありえないということを知るからである。この自己意識はそれ故に行為である。そしてこの行為は更にまた内面性である」(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)『不安の概念』より)。

4⃣「自己とは何か?」という問いに対する回答、つまり人間の本質であるとされたBestemmelseBestimmung=規定・使命である成るべきところの自己(本来的自己)として強調されていることは、「神:人間の関係において、その関係がそれ自身に関係するというその動きのこと」である。また、最初の一文のet Forholdein Verhältnis=或る関係というところが不定冠詞eteinであることから、自己であるとされる「その関係がそれ自身に関係するという動きとしての或る関係」は、多数ある「その関係がそれ自身に関係するという動きとしての関係」の内の任意の一つであるということを見て取っておく必要がある。

5⃣「関係する」にあたるforholde sigsich verhaltenの語義について。桝田啓三郎(ちくま学芸文庫版『死に至る病』訳註)によれば、語源的にはまずドイツ語のverhaltenという動詞に従ってデンマーク語のforholdeという動詞が作られ、このforholdeを動詞的名詞化したものがForholdという名詞である。Forholdは、元来は「何かが逃げないように力ずくでしっかりとつかまえておく」という意味であったが、1700年頃からドイツ語から借用されるか、或いはドイツ語の影響を受けるかして、ドイツ語のVerhältnisと同じような意味で用いられるに至った語であるとされる。元の動詞forholdeは、ドイツ語においてverhaltensich verhaltenという再帰動詞としてよく用いられるのと同様に、forholde sigという再帰動詞として用いられる。その意味は次の通りである。

①「ある身構え、姿勢、態度をとる」→「…のやり方をする、…に振る舞う、…の行動をとる、…の態度で対処する」

②多くの場合非人称主語と共に、「物事が…の事情(状態)にある」

③「…に対して或る関係に立つ」、特に「誰かが誰かと知り合いになる」「誰かに対して依存関係に立つ」

④「何かが何かと対応している、比例している」

以上の意味が「forholde sig=sich verhalten=関係する」に全て備わっていると捉えておきたい。またforholdeの動詞的名詞Forholdは通常①からの意味、つまりその都度の場合場合における「態度、行動、挙動」の意味、特に比較的持続的な「人間の全人格的な行動ないし態度」の意味に用いられる。ドイツ語の場合は動詞verhaltenからVerhalten「態度、行動、挙動etc.」とVerhältnis「関係、比、釣り合いetc.」との二つの名詞ができたが、デンマーク語の場合は動詞forholdeからできた名詞Forhold一語がドイツ語で言うところのVerhaltenとVerhältnisの両方の意味を持っており、しかも「態度、行動、挙動」が第一義である。名詞Folholdの語義も、上記のような本来の語義を絶えず念頭に置いて読む必要がある。キェルケゴールの文脈においてはなお、Forhold及びforholde sigの以上の意味はすべて、「神:人間」に関わっているものである。