グノーシス用語辞典(は行)

グノーシス用語辞典

場所
 グノーシス主義の神話では「あの場所」、「この場所」というような表現で超越的な光の世界と地上世界を指し、「中間の場所」でその中間に広がる領域を表現することが多い。『三部の教え』では、否定神学の意味で、神は「場所」の中にいないといわれ、万物の父(至高神)がアイオーンたちにとって「場所」である(『真理の福音』では、父は自らの内にあるすべての「場所」を知っている)と言われる。さらに同書では、ロゴスの過失によって生み出された造物主が、彼の創造物にとって「場所」であると言う。これらの場合の「場所」は一つの述語として用いられており、その背後には原理としての「質料」を「場所」と定義した中期プラトン主義(アルキノス『プラトン哲学要綱』)などの影響が考えられるかもしれない。『トマスによる福音書』では「光」あるいは「王国」と同意。

パトス
 熱情あるいは受難を意味するギリシャ語。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、ソフィアがその本来の男性的伴侶であるテレートスとの抱擁なしに陥った、父(至高神)を知ろうとする熱情のことで、エンテュメーシス(意図)とともにホロス(境界)の外へ疎外される。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、エローヒームによって地上に取り戻された半処女、「母」エデンがエローヒームに欲情する熱情。

バルベーロー/バルベーロン
 いくつかのグノーシス主義救済神話において、至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在。『ヨハネのアポクリュフォン』では「プロノイア」、「第一の人間」、「万物の母体」、「母父」とも呼ばれ、神話の隠れた主人公の一人であり、最後に自己自身を啓示する。『三体のプローテンノイア』では、プローテンノイアの別名で登場する。エイレナイオスの『異端反駁』は、『ヨハネのアポクリュフォン』のバルベーローに関する記述に相当する部分を要約的に報告して、それを「バルベーロー派」の神話だという。しかしそのバルベーロー派と目されるグノーシス主義の歴史的実態については、やはりエイレナイオスによって報告されるセツ派などの他のグノーシス主義グループの場合と同様、詳細は不明である。「バルベーロー」の語源・語義については、伝統的にヘブル語で「四つの中に神在り」の意の文を固有名詞化したものだとされてきた(この場合、「四」とはプレーローマの最上位に位置する四個組の高次アイオーン、すなわちテトラクテュスを指す)。しかし最近では、コプト語ないしそれ以前のエジプト語で「発出」を意味する「ベルビル」と「大いなる」の意の「オー」とから成る合成語で、「大いなる発出」の意味だとする仮説が唱えられている。

範型
 シリア・エジプト型のグノーシス主義の神話では、基本的にプラトン主義のイデア論に準じて、「上にあるもの」の写し(コピー)として「下のもの」が生成すると考えられている。その場合、「下のもの」が「像」、「影像」、「模像」、「似像」、「模写」と呼ばれるのに対し、「上のもの」が「範型」と呼ばれる。『ヨハネのアポクリュフォン』では、無知蒙昧なる造物主ヤルダバオートがソフィアから抜き取った「不朽の型(=範型)」に倣ってこの世の宇宙万物を「像」として生み出したと説明されている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、プレーローマのキリストがホロス(別名スタウロス=「十字架」)に体を広げて、アカモートの過失を止めた事件が、歴史上のイエスの十字架刑の範型とされている。「範型」と「模像」を対句で用いるのは『フィリポによる福音書』である。

万物
 グノーシス主義神話の述語としては、中間界および物質界と区別された超越的な光の世界プレーローマの同義語として使われる場合が多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、ギリシャ語の全称の形容詞を名詞化した「パンタ」という表記で言及される。ナグ・ハマディ文書の多くは、コプト語の全称の形容詞“têr”(=「すべての」、「全体の」)に男性単数の定冠詞と所有語尾を付して名詞化した形(“ptêrif”)で用い、さまざまな神的アイオーンから成るプレーローマを集合的に表現する。集合的単数の性格は、特に『アルコーンの本質』の万物が並行する『この世の起源について』では、「不死なるものたち(諸至高霊たるアイオーンたち)」と言い換えられていること、また『エジプト人の福音書』が「すべての(“têrif”)」という形容詞をプレーローマに付して、その全体性を表現していることによく現れている。ただし、『三部の教え』では、同じ集合的単数(“ptêrif”)は、すべてのアイオーンを包括する「父(至高神)」の全体性を現す。プレーローマの個々のアイオーンはその単数形をさらに複数形にして(“niptêrif”=いわば「万物たち」)表現される。例外的な用例としては、プレーローマのみならず、下方の領域までの総体を包括的に指す場合、あるいは逆に限定的に、プレーローマ界より下の領域を指す場合がある。

万物の父
 グノーシス主義における至高神(第一の人間)の別称。『ヨハネのアポクリュフォン』、『三部の教え』などでは、表現しえない至高神を何とか表現しようとして、延々と否定形で記述するという形で、至高神について語っている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では「生まれざる父」、ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では三重の「子性」の父として「存在しない神」とも呼ばれる。ただし、ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、例外的に至高神より下位の存在。すなわち「生まれた万物の父」であるエローヒームと同定される。

光り輝くもの/フォーステール
 ギリシャ語フォーステールの訳。『ヨハネのアポクリュフォン』では、プレーローマの内部でアウトゲネース(キリスト)から生成する四つの大いなる光のことで、それぞれ三つずつのアイオーンを従えている。『アダムの黙示録』では、セツの子孫たるグノーシス主義者を指す。同書では大いなるアイオーンから認識をもたらす啓示者を指す。その啓示者たちの名前はイェッセウス、マザレウス、イェッセデケウスである。なお、この名称は、『フィリポに送ったペテロの手紙』ではイエスに、『ヤコブの黙示録Ⅱ』ではヤコブに帰されている。

左のもの/右のもの/左手/右手
 「右のもの」が積極的な意味で用いられるのに対して、「左のもの」は常に否定的な意味で用いられる。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、「左のもの」はソフィアのパトスから派生した物質を指し、「右のもの」、つまり心魂的なものと対照されている。『アルコーン本質』では、改心したサバオートとその右手のゾーエーが積極的に評価されることとの対照で、左手は専横、あるいは邪悪を意味する。『この世の起源について』では、ヤルダバオートがもらい受けるピスティス・ソフィアの左の場所は「不義」と呼ばれ、右が「正義」と呼ばれることと対照されている。『フィリポによる福音書』では、右は「善きもの」、左は「悪しきもの」とされ、十字架が「右のもの、左のもの」と呼ばれる。『三部の教え』では「左の者たち」=物質的種族が負の存在として、「右の者たち」=心魂的種族と対照されている。『真理の福音』では、99までは左手で数えられ、1を欠くので欠乏を、99に1を足して100からは右手で数えられるので、右は完全を表す。

復活
 本質的には人間が本来的自己を覚知することを意味する。したがって、時間的な側面では、新約聖書の復活観とは対照的に、死後の出来事ではなく、死より前、生きている間に起きるべきこととなる。場所的な側面では、この世あるいは「中間の場所」から本来の在り処であるプレーローマへ回帰することが、人間の肉体的な死であると同時に、霊的な復活を意味する。『復活に関する教え』はこの二つの意味での「霊的復活」について語る。復活に関しては『フィリポによる福音書』、『復活に関する教え』、『魂の解明』、『真理の証言』、『シェームの釈義』などに詳しい記述がある。子宮とも密接に関連しているが、復活の概念はグノーシス主義の死生観において逆説的な表現が入り乱れるキータームである。
グノーシス主義の死生観(詳細説明執筆中)

物質/質料
 ギリシャ語「ヒューレー(hylê)」の訳語。この同じギリシャ語を中期プラトン主義は「神」、「イデア」と並ぶ三原理に一つ、「質料」の意味で用いるが、グノーシス主義は肉、肉体、あるいは泥などとほぼ同義の否定的な意味合いで用いることが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、アカモートの陥った情念から派生する。『ヨハネのアポクリュフォン』、『真理の福音』では、初めから存在が前提されているもの、つまり一つの原理として、いささか唐突に言及される。反対に『この世の起源について』では、「垂れ幕」の陰から二次的に生成し、カオスの中へ投げ捨てられて、やがてヤルダバオートの世界創造の素材となる。『アルコーンの本質』でも、上なる天と下の領域を区切るカーテンの陰から生成し、やがてピスティス・ソフィアの流産の子サマエールを生み出す。同書では「闇」あるいは「混沌(カオス)」と同義である。

プレーローマ
 ギリシャ語で「充満」の意。至高神以下の諸至高霊アイオーンによって満たされた超越的光の世界を表現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語である。しかし必ずしもどの文書にもこの述語が現れるというわけではない。たとえばヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデスの教説では、プレーローマの代わりに「超世界」、『アルコーンの本質』と『この世の起源について』ではオグドアス、あるいは「八つのもの」という表現が用いられている。この語が複数形で用いられ、「父のすべての流出」を指す場合もある。
 なお、分析心理学者C.G.ユングは、『死者への七つの語らい』でプレーローマ(邦訳ではプレロマと表記されている)を、形も音もなく、無であり空であるが、すべての対立する特性で充溢されているという、「原初空虚=充満空虚」だと説明している。その上でユングは、アブラクサスについて、神と悪魔の上に立つ至高者として、また不可知的超越世界の空無の特性をそのまま具現化した「不可能な存在」として語っている。
アブラクサスの伝説(執筆中)

プロノイア
 ギリシャ語で「摂理」の意。ストア哲学では宿命(ヘイマルメネー)と同一で、神的原理であるロゴスが宇宙万物の中に偏在しながら、あらゆる事象を究極的には全体の益になるように予定し、実現していくことを言う。あるいは中期プラトン主義(偽プルータルコス「宿命について」)においては、恒星天ではプロノイアが宿命に勝り、惑星天では均衡し、月下界では宿命がプロノイアに勝るという関係で考えられる。グノーシス主義はストアにおけるプロノイアと宿命の同一性を破棄して、基本的に宿命を悪の原理、プロノイアを至高神に次ぐ位置にある救済の原理へ二分割するが、文書ごとに微妙な差が認められる。『ヨハネのアポクリュフォン』はプレーローマ界に二つのプロノイア、中間界にもう一つのプロノイア、地上界に宿命を配置するが、『この世の起源について』はプレーローマ、中間界、地上界のそれぞれに一つずつプロノイアを割り振り、中間界と地上界のそれについては宿命と同一視している。『エジプト人の福音書』でもそれはみられるが、「大いなる見えざる霊(父・至高神)」との関係、あるいはその他の点での神話論的な位置づけが明瞭に読み取れない。

ヘプドマス/七つのもの
 ギリシャ語で「七番目のもの」あるいは「七つのもの」の意。グノーシス主義神話では造物主デミウルゴスとその居場所を指すことが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、オグドアス(八つのもの)と呼ばれる母アカモートの下位にいるデミウルゴスのこと。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では、オグドアスにおける「大いなるアルコーン」とその子アブラクサスの下位に位置する神「別のアルコーン(旧約聖書の神ヤハウェに相当)」とその息子の住処とされている。『ヨハネのアポクリュフォン』では一週七日(「週の七個組」)の意。『この世の起源について』では、本文が欠損していて確定しにくいが、おそらく第一のアルコーンの女性名である。『エジプト人の福音書』ではプレーローマ内の存在の何らかの組み合わせを指すが、詳細は不詳である。

母父/メートロバトール
 ギリシャ語「メートロバトール」の訳。このギリシャ語は通常は母方の祖父の意味であるが、『ヨハネのアポクリュフォン』の特に長写本は両性具有の存在バルベーローを指して用いている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、造物主デミウルゴスの別名である。