グノーシス用語辞典(た行)

グノーシス用語辞典

第一の人間/完全なる人間/真実なる人間/人間
 超越的世界プレーローマの至高神のこと。必ずしもすべての神話が至高神にこの呼称を与えているわけではないが、「人間即神也」というグノーシス主義一般に共通根本的思想をもっとも端的に表現するもの。至高神はこの他に「人間」、「不死なる光の父」、「存在しない神」、「万物の父」、「不朽なるもの」、「生まれざる方」、「生まれざる父」、「始まりも終わりもないもの」、「原父(プロパトール)」、「深淵(ビュトス)」などといった多様な呼称で呼ばれている。『ヨハネのアポクリュフォン』では、至高神と同時にバルベーローも「第一の人間」と呼ばれる。
 「完全なる人間」は終末に到来が待望される救済者、すでに到来したキリスト、あるいは人類の中の「霊的種族」の意味で使われることもある。同様に「真実なる人間」も、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説において、例外的に、至高神より下位のアイオーンの「オグドアス」の一つを指す。同書では「人間(アントローポス)」は至高神ではなく、より下位の神的存在(アイオーン)の一つ。

中間の場所
 ヴァレンティノス派グノーシス主義に特有な神話素で、大きくは超越的プレーローマ界と物質界の中間の領域を指す。より正確には、アカモートが終末までの間一時的に置かれる場所で、中間界以下を創造する造物主デミウルゴスの上に位置する。同書では心魂的な人間たちが終末において到達する場所。なお、『フィリポによる福音書』では例外的に忌むべき「死」の場所であり、滅亡の場所の意である。『シェームの釈義』では、巨大な女性器として見られた宇宙の中で「処女膜の霊」と「胞衣の霊」の下に位置する領域を指し、啓示者デルデケアスによるヌースの回収作業によって闇から清められる。

「対」
 ギリシャ語「シュジュギア」の訳。プレーローマの至高神が自己思惟の主体と客体に分化して、さまざまな高次の神的存在であるアイオーンを流出する。それと共に原初的な両性具有(男女=おめ)の在り方も男性性と女性性に分化し、男性アイオーンと女性アイオーンが一つずつ組み合わされて「対」を構成する。ヴァレンティノス派の場合には、ビュトス(深淵)とエンノイア(思考)、ヌース(叡智)とアレーテイア(真理)、ロゴス(ことば)とゾーエー(生命)、アントローポス(人間)とエクレーシア(教会)のように、ギリシャ語の男性名詞と女性名詞を巧妙に組み合わせて「対」関係を表現している。『ヨハネのアポクリュフォン』の場合も元来のギリシャ語原本では同様の消息であったと考えられるが、現存のコプト語の同義語へ翻訳した結果、文法的な性が変わってしまったために、ギリシャ語原本の神話論的巧妙さは失われている。
 『ヨハネのアポクリュフォン』は、ヤルダバオート配下の七人のアルコーン(男性)にもそれぞれ女性的「勢力」を割り振って「対」関係を造り上げているが、『この世の起源について』ではヤルダバオート以下、「十二人」、「七人」、も含めて、諸々の悪霊まで両性具有の存在と考えられている。

つくり物/こしらえ物/形成物
 ギリシャ語「プラスマ」の訳。例外的に積極的な意味で用いられることもあるが、大抵の場合はアルコンテスが造り出す心魂的人間、あるいは肉体の牢獄という否定的な意味で用いられる。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、「母」である半処女エデンが造り出したこの世のことである。

テトラクテュス
 ピュタゴラス学派では最初の四つの整数の和で「10」のことを指すが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説においては、超越的世界プレーローマの最も深部にある高次のアイオーンであるビュトス(深淵)、エンノイア(思考)、ヌース(叡智)、アレーテイア(真理)の四個組を指していう。

デミウルゴス [ギ]dēmiūrgos
 デミウルゴス(デーミウールゴス)はギリシャ語で「製作者」「構築者」の意。グノーシス主義においてはアルキゲネドール、パントクラトールとも呼ばれる。元来はプラトン哲学で語られる善なる造物主・創造神を指していう。プラトン哲学では、この善なるものとしてのデミウルゴスが、原型イデアに則って素材から宇宙を生成し、善きものとしての秩序を形成したとして神聖視されている(『ティマイオス』に詳しい)が、グノーシス主義においては打って変わって「呪われた偽りの神」として扱われており、真に善きなるものとしての至高神とは明確に区別されたうえ、その被造としての宇宙、そして秩序は転じて倒錯的なものであり、カオスだと貶められることになった。すなわちデミウルゴスは、カオスとしての宇宙を支配する征服者として扱われ、悪霊群の首領と位置づけられたのである。多くのグノーシス主義神話では、このデミウルゴスの位置づけに旧約聖書の神ヤーヴェを当てはめ、ヤルダバオート(無知蒙昧なる神)、サマエール(盲目の神)、サクラス(馬鹿な神)などといったように、明らかにそれを冒涜し、徹底的に貶める意味が含まれている語で表現する。
デミウルゴス詳細説明(執筆中)
→サクラス、サマエール(サ行)
→ヤルダバオート(ヤ行)

デュナミス/ホロス
 ギリシャ語「デュナミス」は、グノーシス主義においては通常「諸力」の意味で否定的に用いられるが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では例外的に、超越的世界プレーローマ内のアイオーンの一つで、ソフィアの過失を最小限にくい止める境界(=ホロス、カーテン)の役割を果たす。なお、護符に描かれるアブラクサスの左手に握られている鞭はデュナミス(力)を象徴するものである。

塗油
 元来は原始キリスト教において、洗礼の儀式との関連で行われた儀礼。洗礼は罪の赦しと同時に精霊を授与・受領する儀式とも理解されたので、その精霊が洗われないよう、受洗者を油で封印するために行われた象徴行為であると思われるが、洗礼と塗油の前後関係についてはよくわかっていない。その後も紀元後3-4世紀まで東方教会西方教会ではその順番付けが異なっていた。グノーシス主義の文書では、『フィリポによる福音書』が洗礼、聖餐、救済、新婦の部屋と並ぶ儀礼として繰り返し言及する。特に洗礼との関連が密接であるが、同時に洗礼よりも塗油の方が重要であることが強調される。「クリスチャン」の呼称は、本来の「キリストに属する者」という意味ではなく、「油を注がれた者」、すなわちグノーシス主義者を指すものに転義している。それどころか、塗油を受けたグノーシス主義者は一人一人が「キリスト」になるとされているのである。神話上の場面としては、『ヨハネのアポクリュフォン』で「独り子(またはアウトゲネース)」が至高神から「至善さ」によって塗油されて「キリスト」となる。ここでは、一方で「至善な」がギリシャ語では「クレーストス」、他方で「キリスト」が元来「塗油された者」の意で、ギリシャ語では「クリストス」であることを踏まえた語呂合わせが行われている。

泥/泥的
 宇宙と人間を霊、心魂、物質(肉体)にわけて捉えるグノーシス主義の三分法的世界観において、価値的に最下位のもので、物質と同義。貶下的な意味での「悪しき霊魂(ゼーレ)ども」という呼称も同義である。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、造物主が物質(質料)の内の液状のものから造り、心魂的なものへ注入する。これは、至高神あるいは超越的世界プレーローマとは一切無縁の非神的要素である。そのため終末にあっては、最終的な救いに与ることができず、「世界大火」によって焼き尽くされる運命にある。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、イエスの十字架刑において心魂的部分と共に受難する部分として、受難を免れる霊的部分と区別されている。同書には泥的人間、心魂的人間、霊的人間の三分法が見られる。