グノーシス用語辞典(さ行)

グノーシス用語辞典

サクラス/サクラ
 主にヤルダバオート、サマエール、あるいはパントクラトール(万物の支配者)の名で呼ばれる造物主デミウルゴスと同じ。語源はアラム語ないしシリア語で、「馬鹿な」を意味する。

サバオート
 旧約聖書における「万軍の主なる神」という表現の、「万軍の」に該当するヘブル語を、神話論的に擬人化したもの。『アルコーンの本質』では、ヤルダバオートの息子であるが、父の愚かさを謗って離反し、ピスティス・ソフィアとその娘ゾーエーを賛美して、第七天へ移される。ゾーエーと「対」を構成する。『この世の起源について』でもほぼ同じ関係になっている。

サマエール
 サクラスあるいはヤルダバオートの別名。その語義は「盲目の神」。一説によれば、この語義説明はシリア語で「盲目な」を意味する形容詞“samyâ”との語呂合わせに基づいている。

子宮
 グノーシス主義救済神話の重要な象徴語の一つであり、積極的、中立的、否定的の三つの意味合いで用いられる。積極的な意味では、万物の「母胎」としての至高神、あるいはそれに準ずる両性具有の神的存在を指す。また、人間の胎児の宿る場所を指す。否定的には、男女の性行為によって、増殖・存続する現実世界の全体を指す。

十二人
 天の黄道十二宮(獣帯)を神話論的に擬人化したもので、『ヨハネのアポクリュフォン』と『エジプト人の福音書』では、造物主(ヤルダバオート)の配下としてその名前が列挙されている。『この世の起源について』では名前を挙げられるのは六人であるが、それぞれ両性具有であるために十二人とも呼ばれる。ただし、その六人の名前は『ヨハネのアポクリュフォン』や『エジプト人の福音書』のそれとは一部異なっている。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告による『バルクの書』では、「父エローヒーム」と「母エデン」がそれぞれ自分のために生む天子の数である。

終末
 プレーローマの中に生じた過失の結果として、物質的世界の中に散らされた神的本質(霊・光・力)が再び回収されてプレーローマに回帰し、その欠乏状態が回復されて、万物の安息が取り戻されること。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるヴァレンティノス派グノーシス主義によれば、その際、霊的なものはプレーローマに入るが、心魂的なもの「中間の場所」に移動し、残された物質的世界は、「世界大火」によって焼き尽くされる。『この世の起源について』では同様の終末論を黙示文学的な表象で描いている。また、宇宙万物の終末について論じるこのような普遍的終末論とは別に、個々人の死後の魂(霊)の運命について思弁をめぐらす個人主義的終末論があり、ティグリス・ユーフラティス河の下流域に現存するマンダ教などを含めて、グノーシス主義全体についてみれば、頻度的には後者のほうが多い。『真理の福音』では「終わりとは隠されていることの知識を受けること」とされている。

種子
 グノーシス主義の神話でもっとも頻繁に現れる述語の一つで、多様な意味で用いられる。一つは潜在的可能性の比喩として用いられる場合で、たとえば『真理の福音』で、人間を起こす「真理の光」は「父の種子」に満たされている。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説においては、世界の種子(=汎種子混合体、パンスペルミア)は三重の「子性」と世界万物を潜在的に包含する。エイレナイオス『異端反駁』の報告による、ヴァレンティノス派グノーシス主義の教説によれば、アカモートが造物主の中に密かに導く霊的存在のことで、しかるべき時まで成長を続ける。『三部の教え』でも「イエス・キリストの約束の種子」などのほか、潜在的可能性の意味での用例が多い。「一部」あるいは「肢体」もこの意に近い。今一つは「子孫」の意味の用例で、『ヨハネのアポクリュフォン』における「セツの子孫」、『フィリポによる福音書』の「人の子の種子」などがある。『アルコーンの本質』の「あの種子」(=単数)はさらに別の用例で、終末論的救済者を意味している。最後に、『この世の起源について』では、権威、天使、悪霊たちの精液のこと。

処女なる霊
 多くの場合「見えざる霊」と一組に用いられて、プレーローマの至高神を指す。ただし例外的にヤルダバオートの部下のそれぞれの所有物を指して言うことがある。

諸力
 ギリシャ語「デュナミス」の訳語。多くの場合「アルコーンたち(アルコンテス)」「権威たち」と同義語であるが、男性的なアルコンテスに女性的属性として組み合わされて、「対」関係を構成することがある。

心魂/心魂的/生魂/生魂的/魂
 グノーシス主義は人間(ミクロコスモス)を霊、心魂、肉体(物質)の三つから成ると見るのに対応して、宇宙(マクロコスモス)も超越的プレーローマ、中間界、物質界の三層に分けて考える。「心魂」はその場合の中間の原理。多くの文書で繰り返し「霊的なるもの」と対比される。その起源を神話論的に最も立ち入って、説明するのはヴァレンティノス派である。エイレナイオス『異端反駁』の報告によれば、アカモート(下のソフィア)の立ち帰りから導出され、「右のもの」とも呼ばれる。また、同書によれば、「善い行ない」によってのみ「中間の場所」へ救われる者たちを指す。『三部の教え』によれば、アカモートではなく、ロゴスが過失を犯し、その「立ち帰り」から導出される。ただし、魂と肉体の二分法に立つ文書もあり、たとえば『魂の解明』での「魂」は、三分法で言うところの「霊」と同じである。

身体
 『ヨハネのアポクリュフォン』や『この世の起源について』では「七人」のアルコーンたちによって造られる「心魂的人間」をさす。この人間は肉体を着せられる以前の人間であるから、「身体」は肉体性と同義ではなく、むしろ個体性の意味に近い。グノーシス主義否定神学は至高神がこの意味での「身体性」をも持たないことを強調する。ただし、『真理の福音』では、「彼(父)の愛がそれ(言葉)の中で体となり」と言われる。

新婦の部屋/婚礼の部屋
 ヴァレンティノス派に特有の神話論的表象および儀礼。エイレナイオス『異端反駁』の報告によれば、プレーローマの内部で「キリスト」(第一のキリスト)と精霊、アカモートとソーテール(=救い主、プレーローマの星、第二のキリスト、イエスに同じ)がそれぞれ「対」関係を構成するのに倣って、地上の霊的な者たちも、やがて来るべき終末において、ソーテールの従者たる天使たち(花婿)に花嫁として結ばれる。ヴァレンティノス派はこの結婚を「新婦の部屋」と呼び、その地上的な「模像」として一つの儀礼(サクラメント)行為を実践した。その具体的な中身について、エイレナイオスやヒッポリュトスを含む反異端論者の側ではいかがわしい推測も行われたが、最近の歴史的・批判的研究では「聖なる接吻」説と「臨終儀礼」説が有力である。ナグ・ハマディ文書のなかでは、『フィリポによる福音書』がもっとも頻繁に言及する。

世界
 目に見える現実の宇宙的世界のこと。プラトン主義では「最良の制作物」(アルキノス『プラトン哲学要綱』)と見做されたのと対照的に、グノーシス主義では、自らが不完全な「流産の子」である造物主(ヤルダバオート)が造り上げた不完全な「つくり物」として、超越的なプレーローマから価値的に厳しく区分される。たとえば、『復活に関する教え』によれば、この世界は一つの幻影であり、そこからの「復活」が救いである。ただし、この区分はグノーシス主義の展開と共に融和される方へと進み、「つくり物」の世界の形成にも、プレーローマの意志が隠れた形で働いていたとされるに至る。オイコノミア(経論)と表現されることもある。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説においては例外的に、まず「世界の種子(汎種子混合体、パンスペルミア)」について語り、その後でその「世界」を、「存在しない神」の超越的世界と下方の可能的世界に分割し、後者をさらに「オグドアス(大いなるアルコーンとアブラクサスの領域)」、「ヘプドマス(別のアルコーン=旧約の神の領域)」「ディアステーマ(僻地)」に三区分している。

セツ/セツの子孫
 セツは、旧約聖書『創世記』に登場するセツ(セト)のことである。このセツに、神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫であると見做したグノーシス主義グループがいたことはエイレナイオス、ヒッポリュトス、エピファニオスら、異端反駁論者の報告書から知られている。しかし、この三者の報告に食い違いが大きく、統一的なイメージに収斂しないため、いわゆる「セツ派」と呼ばれるグノーシス主義の歴史的実態は不明である。ナグ・ハマディ文書の中にも、『ヨハネのアポクリュフォン』、『エジプト人の福音書』、『アダムの黙示録(全体がアダムからセツへの掲示)』を初めとして、『アルコーンの本質』、『セツの三つの柱』、『ゾストゥリアヌス』、『メルキセデク』、『ノーレアの思想』、『マルサネース』、『アロゲネース』などがセツ派のものではないかと考えられている。なお、セツ(Seth)は、エジプト古来の神で、オシリス神話にも悪神として登場するセト神と同じ綴りであることもあって、ある時期以降、両者の混淆が起きている。

洗礼
 ナグ・ハマディ文書の中には洗礼について言及するものが少なくない。特に『三部の教え』では、「唯一の洗礼」「それを二度と脱ぐことのない者たちのための衣服」などの種々な呼称を紹介するほか、ヴァレンティノス派の洗礼に関する詳細な議論を繰り広げる。『この世の起源について』は、霊の洗礼、火の洗礼、水の洗礼という三種類の洗礼について語っている。『三体のプローテンノイア』では、女性的啓示者であるプローテンノイアが、覚知者を天使に委ねて洗礼を受ける。『アダムの黙示録』では、13の王国が終末論的救済者の起源について、それぞれ意見を開陳する結びのところで、「こうして彼は水の上にやってきた」という定型句が繰り返される。いずれの背後にもグノーシス主義的な意味づけを伴った洗礼の儀式が前提されている可能性が大きい。特に『フィリポによる福音書』では間違いなくそうである。同書では塗油の儀礼と密接に関連付けられ、価値的にはその下位に置かれている。『エジプト人の福音書』においても洗礼儀式が重要な役割を演じている。『真理の証言』と『シェームの釈義』は、水による洗礼を「汚れた」ものとして拒否する。

像/影像/似像/模像/模写
 『グノーシスの宗教』の著者で知られるハンス・ヨナスが提唱した、グノーシス主義救済神話の類型区分でいうところの、「シリア・エジプト型」の神話は、プレーローマの至高神から地上の肉体という牢獄に閉じ込められた人間まで、上から下へ垂直的に展開される。その展開を支える根本的な思考法は、「上にあるもの」が「範型(≒イデア)」となり、「下のもの」がその「像」(eikôn)として造り出されるというもので、基本的にプラトン主義の考え方に準じている。したがって、この「範型」と「像」という関係は神話のさまざまな段階において、大小さまざまな規模で繰り返される。
(1)バルベーローは至高神の似像(→『ヨハネのアポクリュフォン』)
(2)「第一の天(プレーローマ)」から下へ、上天が下天の範型となって、最下位の天まで365の天が生じる(→エイレナイオス『異端反駁』報告におけるバシレイデス派の教説)
(3)造物主(ヤルダバオート)は上なる「不朽の範型」を知らずに(→『ヨハネのアポクリュフォン』)、あるいはそれを見ながら(→『三部の教え』『この世の起源について』)、中間界以下を創造する。
(4)アルコーンたちは至高神の像を見ながら、その似像として心魂的あるいは泥的人間を創造する(→エイレナイオス『異端反駁』報告におけるヴァレンティノス派教説、『アルコーンの本質』)。
(5)エバはアダムの似像(→『アルコーンの本質』)であると同時に、
(6)プレーローマから派遣される「真実のエバ」の模像。
 その他、特に『フィリポによる福音書』では、「新婦の部屋」などの儀礼行為もプレーローマにある本体の模像とされる。
 また『トマスによる福音書』では、以下の三つの実体が区別されている。
(1)霊的「像(エイコーン)」
(2)地上の「像(エイコーンの複数)」
(3)「外見」または「似像(エイネ)」
(1)と(3)は、創世記の「像(ホイコーン)」と「似像(ホモイオーシス、そのコプト語訳がエイネ)」にあたる。(2)は(1)の地上における顕現形態で、(3)は(2)の反映かと考えられている。

ソフィア/ピスティス・ソフィア
 ギリシャ語で「智慧」の意。ヘブル語の「智慧」あるいは「智慧の女神」を意味する「ホクマー」を転用する形で用いられることがある。グノーシス主義救済神話では擬人化され、たいていもっとも重要視される女性アイオーンである。「シリア・エジプト型」のグノーシス主義救済神話においては擬人化されて、プレーローマの最下位に位置している。男性的「対」の同意なしに「認識」の欲求に捕らわれ、それを実現しようとしたことが過失となり、プレーローマの安息が失われ、その内部に「欠乏」が生じ、それがやがて出来損ないの息子である造物主デミウルゴスを生み出すことになり、中間界以下の領域生成につながっていくことになる。グノーシス主義は「認識」が救済にとって決定的に重要であることを強調する一方で、同時に認識欲の危険性を知っており、神話においてはソフィアの過失をその教示として示している。ヴァレンティノス派では「上のソフィア」、「下のソフィア」、「小さなソフィア」、あるいは「死のソフィア」、「塩(不妊)のソフィア」など、さまざまなレベルのソフィアが登場する。
 『アルコーンの本質』と『この世の起源について』では、「ピスティス・ソフィア(=ギリシャ語で「信仰・智慧」の意)」という名称で登場し、ヤルダバオートと「七人」を生み出し、アルコーンたちによる心魂的人間の創造をも陰で仕組むなど、陰に陽に神話全体の主役として描き出されている。さらに『この世の起源について』ではヤルダバオートの娘にもこの名が与えられており、「七人」の一人アスタファイオスの女性的側面を構成する存在もソフィアと呼ばれている。なお、護符に描かれるアブラクサスの右手に武装されている盾は、ソフィア(智慧)を象徴するものである。

ソフィア・ゾーエー
 ゾーエーとはギリシャ語で「生命」の意。新約聖書が「永遠の生命」という時と同じ単語である。グノーシス主義の神話では擬人化されて、終末論の文脈で働く女性的救済者の一人。「ソフィア・ゾーエー」とも、単に「ゾーエー」とも表記される。『ヨハネのアポクリュフォン』では「光のエピノイア」と同じ。『アルコーンの本質』ではピスティス・ソフィアの娘である。『この世の起源について』でも同様であり、サバオートに「オグドアス」の中の存在について教え、心魂的アダムを創造し、地的アダムを起き上がらせる。