アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート②

5.序論-「ラザロの復活」論-

 序論では二つの種類の死が問題となっている。

 

1⃣通常の肉体上の死

2⃣イエス・キリストによって約束された永遠の生命を信ずることができないという意味での絶望としての死

 

 序論は『ヨハネによる福音書』のいわゆる「ラザロの復活」で知られる11章を読んでおかないことには、これまでの記述の同義異語の受取り直し(反復)である側面があることには変わりはなくても、事細かには何を言っているのかがわかりにくくなっており、躓きかねない。そこで『ヨハネによる福音書』の11章について詳解しつつ、アンチ-クリマクス(キェルケゴール)が何をここで言おうとしているかを補足しておきたい。まずは、ぜひとも『ヨハネによる福音書』11章に当ってみていただきたい。

 

 ここに病める者あり、ラザロと云ふ、マリヤとその姉妹マルタとの村ベタニヤの人なり。此のマリヤは、主に香油をぬり、頭髮にて御足を拭ひし者にして、病めるラザロはその兄弟なり。姉妹ら人をイエスに遣して主、視よ、の愛し給ふもの病めりと言はしむ。之を聞きてイエス言ひ給ふこの病は死に至らず¹、神の榮光のため、神の子のこれに由りて榮光を受けんためなり」。イエスはマルタと、その姉妹と、ラザロとを愛し給へり。ラザロの病みたるを聞きて、その居給ひし處になほ二日とどまり、而してのち弟子たちに言ひ給ふ「われら復ユダヤに往くべし」。弟子たち言ふ「ラビ、この程もユダヤ人、汝を石にて撃たんとせしに、復かしこに往き給ふか」。イエス答へたまふ「一日に十二時あるならずや、人もし晝あるかば、此の世の光を見るゆゑに躓くことなし。夜あるかば、光その人になき故に躓くなり」。かく言ひて復その後いひ給ふ「われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起さん爲に往くなり」。弟子たち言ふ「主よ、眠れるならば癒ゆべし」。イエスは彼が死にたることを言ひ給ひしなれど、弟子たちは寢ねて眠れるを言ひ給ふと思へるなり。ここにイエス明白に言ひ給ふ「ラザロは死にたり²。我かしこに居らざりし事を汝等のために喜ぶ、汝等をして信ぜしめんとてなり。されど我ら今その許に往くべし」。デドモと稱ふるトマス、他の弟子たちに言ふ「われらも往きて彼と共に死ぬべし」。

 さてイエス來り見給へば、ラザロの墓にあること既に四日なりき。ベタニヤはエルサレムに近くして、二十五丁ばかりの距離なるが、數多のユダヤ人、マルタとマリヤとをその兄弟の事につき慰めんとて來れり。マルタはイエス來給ふと聞きて出で迎へたれど、マリヤはなほ家に坐し居たり。マルタ、イエスに言ふ『主よ、もし此處に在ししならば、我が兄弟は死なざりしものを。されど今にても我は知る、何事を神に願ひ給ふとも、神は與へ給はん』。イエス言ひ給ふ『汝の兄弟は甦へるべし』。マルタ言ふ『をはりの日、復活のときに甦へるべきを知る』。イエス言ひ給ふ『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか』。[マルタ]彼に言ふ『主よ然り、我汝は世に來るべきキリスト、神の子なりと信ず』。

 かく言ひて後、ゆきて竊にその姉妹マリヤを呼びて『師きたりて汝を呼びたまふ』と言ふ。マリヤ之をきき、急ぎ起ちて御許に往けり。イエスは未だ村に入らず、尚マルタの迎へし處に居給ふ。マリヤと共に家に居りて慰め居たるユダヤ人、その急ぎ立ちて出でゆくを見、かれは歎かんとて墓に往くと思ひて後に隨へり。

 かくてマリヤ、イエスの居給ふ處にいたり、之を見てその足下に伏し『主よ、もし此處に在ししならば、我が兄弟は死なざりしものを』と言ふ。イエスかれが泣き居り、共に來りしユダヤ人も泣き居るを見て、心を傷め悲しみて言ひ給ふ、『かれを何處に置きしか』彼ら言ふ『主よ、來りて見給へ』。イエス涙をながし給ふ³。ここにユダヤ人ら言ふ『視よ、いかばかり彼を愛せしぞや』。その中の或者ども言ふ『盲人の目をあけし此の人にして、彼を死なざらしむること能はざりしか』。

 イエスまた心を傷めつつ墓にいたり給ふ。墓は洞にして石を置きて塞げり。イエス言ひ給ふ『石を除けよ』死にし人の姉妹マルタ言ふ『主よ、彼ははや臭し、四日を經たればなり』。イエス言ひ給ふ『われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』。ここに人々石を除けたり。イエス目を擧げて言ひたまふ『父よ、我にきき給ひしを謝す。常にきき給ふを我は知る。然るに斯く言ふは、傍らに立つ群衆の爲にして、汝の我を遣し給ひしことを之に信ぜしめんとてなり』。

 斯く言ひてのち、聲高く『ラザロよ、出で來れ』と呼はり給へば、死にしもの布にて足と手とを卷かれたるまま出で來る、顏も手拭にて包まれたり。イエス『これを解きて往かしめよ』と言ひ給ふ。(『ヨハネによる福音書111-44節)

 

⑴「この病は死に至らず」

 通して読んでみれば一目瞭然の事なのだが、イエスの発言と行動は、徹頭徹尾それを見聞きする人々の応答・反応との間に齟齬をきたしており、全く理解されていない。まず、ベタニヤ村に住んでいるマリヤとマルタの姉妹が、人をイエスに遣わして彼女たちの兄弟ラザロの「病」を報告するところから始まるが、この報告は、このラザロの病が「肉体的な死の迫った肉体上の病」であるという意味では切迫感を伴っている。しかし、このラザロの罹った「肉体的な死の迫った肉体上の病」について、イエスは「この病は死に至らない(死で終わらない)」と言い、続けてそれは「神の榮光のため、神の子のそれを通して榮光を受けるためのものだ」と述べ、急いで駆け付けるということもなく、二日間場所を移動するということもなかった。イエスは最初からラザロの罹った病が「肉体的な死の迫っている病」であることを知っていながら「この病は死に至らない」と言ったのである。従ってこの言及そのものは、肉体上の病による死の切迫を問題としていたのではない。イエスを信じ、永遠の生命を信仰する者(キリスト者)からすれば、アンチ-クリマクス(彼がこれまでにないほどの非凡で高度なキリスト者であることを思い出してほしい)が言うように「[肉体上の]死は決して全てのものの最後ではなく、[肉体上の]死も又一切であるところのもの、即ち永遠の生命の内での小さな出来事に過ぎない」。むしろこの立場からすれば、「単に人間的に、そこに生あるのみならず、この生が最も完全な健康と力に充ちている時に希望があると言われる場合より、無限に多くの希望が[肉体上の]死の内に存する」のであって、「[単なる肉体上の]死など「死に至る病」ではない」のである。この意味でイエスは、ラザロの罹った「肉体的な死の迫った肉体上の病」を指して「この病は死に至らない」と言ったのであった。強調しておくが、この言葉には信仰の問題が強く込められており、アンチ-クリマクス(キェルケゴール)もこのことを汲んだうえでこの言葉を選択していると思われる。

 

⑵「ラザロは死にたり」

 イエスは二日経ってから行動を起こした。それはラザロが肉体上の死を遂げたことからのものであったが、イエスはラザロが肉体上の死を遂げるであろうことも、そうなったことも、誰から報告されるでもなく知っていた。二日間動かず、病床のラザロの下に駆け付けなかったのは、本章の後半において見せる、自分を遣わしたところの神の業の成就、つまり肉体上の死を遂げた者(ラザロ)を甦生させるという大いなる奇跡の成就のためである。イエスは自分の弟子たち或いは自分を信じると言っている周囲の者たちが、心の深いところで(つまり精神において)は信仰心に目覚めていない、つまり「精神になっていない」ことがよくわかっていたので、その者たちが信仰心に目覚めることができるように、つまり「精神になる」ことができるように、これをなそうとしたのである。これはすべて神の経綸である。イエスの行動は細部に至るまで全て、この神の経綸に基づいているのであって、無意味なところは一つもない。この神の経綸に基づいて、イエスはラザロのもとに駆け付けようとはせず、二日間動かなかったのであった。だが、これはイエス自身が当に分かっていたことではあるが、弟子たちには未だこの神の経綸がわからない。だからイエスが二日間動かなかった理由もわからなかったし、イエスが二日経ってから「私たちの友であるラザロが眠りについてしまった。だが、彼を眠りから覚ますために私は行く」と言ったことも、「[ラザロの罹った]この病は死に至らない」と言ったことの意味も、すべて誤解してしまう。神の経綸は人間の分際では測りがたいことであるので、弟子たちが誤解してしまうのも無理はないのではあるが。弟子たちは、イエスが当初ラザロについて彼の「病は死に至らない」と言っていることから、「眠りについてしまったラザロを眠りから覚ますために行く」と言っているイエスがラザロの肉体上の死を指して「眠りについた」と言っているところのそれを「睡眠」の意味と取り違えて捉えてしまっているだけでなく、ラザロの病がラザロを死に至らしめないのは、イエスがラザロの肉体上の病を治癒して、通常の意味で死なないようにするためだと誤解してしまっているのである。これが意味するのは、弟子たちが永遠の生命ということについて、心の奥深いところ(精神)において信じるということができておらず、通常の肉体上の死にのみ気にかけ固執しているということである。この弟子の誤解した言葉から、イエスは今度ははっきりと「ラザロは死んだ」と告げることになるのだが、これは「ラザロの肉体上の死」についての単なる事実確認やその事実の周知のためだけの発言ではない。もちろん通常の意味で「ラザロは死んだ」ということを弟子たちに告げる側面もあるのだが、イエスはこう言い直すことで、弟子たちのことを暗に述べているのである。イエスにおいては、ひいては永遠の生命を信じる立場(アンチ-クリマクスのようなキリスト者)においては、ラザロの罹った病はラザロを死に至らしめるものではないと正しく信じられており、ラザロはまさに死んではいない。だが、心の深いところ(精神)において永遠の生命を信じることができていない弟子たちにおいてはそうではない。だからイエスは「ラザロは死んだ」と言い直さなければならない。「ラザロは死んだ」と言わなければラザロの状態がわからない弟子たちは「精神になっていない」。つまり、この言葉は「絶望」であり「罪」であるところの「死に至る病」に弟子たちが罹っているということを暗示させているのである。心の深いところ(精神)において弟子たちが永遠の生命を、ひいてはイエスを信じることができていない以上、つまり死に至る病=絶望の地平しか持ち得ていない以上、彼らのその地平からでは、彼ら自身がまさしく死に至る病=絶望であるということを見出すことができない。そういう死に至る病=絶望である彼らにおいては、ラザロはまさしく通常の肉体的な意味で死んだというだけでなく、彼ら弟子たちが永遠の生命を信じることができていないという意味でも死んでしまっているのである。これは本章において、イエスの弟子たちだけでなく、マルタ・マリヤ姉妹、その他大勢にも徹頭徹尾当てはまっている。

 アンチ-クリマクスは「「この病は死に至らず」。しかし、ラザロは死んだ。弟子たちが、キリストがその後で、「我らの友ラザロ眠れり、されど我を呼び起こさん為に往くなり」と付け加えられたのを誤解した時、キリストは弟子たちにきっぱりと言った。「ラザロは死にたり」。かくしてラザロは死んだ、しかし、この病は死に至らなかった。ラザロは死んでしまった。しかしこの病は死に至らない」という記述で「この病は死に至らない-ラザロは死んだ」という対になる同じことを数度繰り返す形で序論の冒頭を記述している。これは以上のこと(⑴、⑵)を踏まえて読むと、アンチ-クリマクスは「この病は死に至らない」ということで信仰を、「ラザロは死んだ」ということで死に至る病=絶望=罪を表した上でこの二つの質的差異を強調し、「信仰か-罪か」という、人間がその人生においてどちらか一つの実存方式の選択を迫られる「これか-あれか」を強調して表しているということができる。これはシェイクスピアをよく参照していたキェルケゴールによる、アンチ-クリマクス版「To be, or not to be: that is the question:(「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と訳されることで有名な『ハムレット』の一節。「在るべきか在らぬべきか」とも「成るべきか成らぬべきか」とも訳しうる)」なのである。

 

イエスかれが泣き居り、共に來りしユダヤ人も泣き居るを見て、心を傷め悲しみて言ひ給ふ。[…]イエス涙を流し給ふ」

 イエスはこの記述の箇所に至るまでにマルタ・マリヤ姉妹との会話を経ているが、先にも述べておいたように、イエスとイエス以外の人々の間で交わされる会話は、徹頭徹尾全くと言っていいほどかみ合っていない。先述したことをまとめて言い直せば、この噛み合わなさは、ただ一人覚醒者であるイエスと、その他大勢の絶望者との間に隔たりとして存在する質的差異のためである。絶望者は酩酊者である。イエスがそうさせているのではない。「世の光」であるイエスが絶望ないし酩酊である者たちに関わることで、彼らの絶望ないし酩酊が明るみに出されるのである。ラザロの肉体上の死という出来事について、ラザロの姉妹であるマルタもマリヤも、そしてラザロの死を嘆き悲しむその他大勢の人々も皆、有限性・必然性・時間的なもの・利己的なものに執着している。みな口々に、盲目の人の眼を治せるイエスがここにいたのなら、その神の業をもってすればラザロの肉体上の病を治すこともできただろうに、そうすればラザロは死なずに済んだだろうに、と言ってイエスに疑問を抱いているのだ。マルタなどは、口ではイエスの言っていることをできるだけ真似してみせたり、イエスのことを信じている、信じ切っているなどと言ったりして、ざっと見ただけではあたかも同じことを語っているかのように見えるのだが、実際のところは心の深いところでは有限性・必然性・時間的なもの・利己的なものに執着しているため、イエスないし永遠の生命について信じ切れていないことが明るみに出されている始末である。そこでイエスは、みなして泣いているのを見て「心を傷め悲しみて言い給ふ」とあるが、この「心を痛め悲しみて」というのは「心の深いところにおいて憤りを覚え、興奮し」とも「霊において息巻いて、掻き乱され」とも取れる文である。後者の「霊において息巻いて」というのは、治癒物語で治癒者がことを行う前に精神集中することをさして表されることがある。これらのどの意味であっても、イエスがこのような心境を抱いているのは、周囲にいる実のところはイエスのことを信じ切れていないすべての死に至る病に罹っている者=絶望者に対してのものである。ただ一人覚醒者であるイエスからしてみれば、皆未だ死に至る病=絶望であることを打ち明けているも同然なのである。イエスは初めから「神が、自分を遣わしたことを、彼らが信じるようになるために」行動している。とりわけ「霊において息巻いて」と取る場合、これは、ラザロの復活という奇蹟を、神の栄光を、彼の周りにいる全ての人々に見せることで、群衆の死に至る病=絶望を治癒することを目的としたイエスの、精神集中の様を表しているということができる。続けて涙を流すイエスが描写されるが、これは周りにいたユダヤ人たちが言い出したような、単にラザロに惚れ込んでいたがためにその肉体上の死を嘆いたという描写ではない。イエスにとってラザロは、初めから、そして彼の墓に近づいていく一歩一歩の瞬間瞬間、その最後に大声で「ラザロよ、出で来たれ!」と呼ぶその瞬間まで、死んでいるとは考えられていない。アンチ-クリマクスが言うように、その最後の呼び声の瞬間に至るまで「「この」病は死に至らないことは既に十分確かなのである」。永遠の生命を信じるということのただ一人の真の覚醒者であるイエスが涙するのは、未だ心の深いところから神を、イエスを、永遠の生命を信じ切ることが出来ていない、自分の周囲にいる死に至る病=絶望である群衆のためである。そのうえさらに、永遠の生命を信じきることができていないという意味で、そのような群衆においては死んでしまっているラザロのために悲しんで涙しているのである。群衆においてはラザロは生きていないからだ。

 アンチ-クリマクスのようなキリスト者からすれば、たとえ、イエスが、ラザロの肉体上の死の迫った病について「この病は死に至らない」と言わなかったとしても、神人であり、「復活なり、生命なり」であるイエス・キリストが、墓へ歩み寄るというだけで、また、そのような彼がそこに在すということだけで、本当に彼を信じ切っていることからして、ラザロが罹った「この病は死に至らない」ということを意味する。最後まで誤解してはいけないのだが、イエスが復活させるから、ラザロの病は死に至らないと言われているのではない。アンチ-クリマクスが語るように、「まさに彼キリストがそこに在すが故に、この病は死に至らないのである」。

 

⑷「自然的人間」について

 序論の後半では、デンマーク語の原語でdet naturlige Menneskeと記され、ドイツ語訳ではder natürliche Menschと訳される「自然的人間」について記述されている。これは『コリント前書』214節に「性來のままなる人は神の御靈のことを受けず、彼には愚なる者と見ゆればなり」とあるところの「性來のままなる人」にあたる。新約聖書キリスト者になるとは精神になることであると説き、先のノートで見たように、それは「死に切る」ことであると説くわけであるが、それは、いかなる人間も精神としては生まれないからそう説くのである。自然的人間は心(SjelSeele=魂)と身(LegemeLeib=肉)であるだけである。自然的人間は、「相対的テロスに対して絶対的に関係し、絶対的テロスに対して相対的に関係する」という実存方式をとっている。自然的人間にとって肉体上の死は、他のどのような人間的苦難や悲惨にも増して最大の不安要素である。これに対して、キリスト者になる=精神になる=死に切るということで言われているのは、実存の改造=信仰によってこの不安を都度克服し、自然的人間が自然的人間として生きている、その世間的・この世的な実存方式を抜け出て、更に上の段階である「相対的テロスに対して相対的に関係し、絶対的テロスに対して絶対的に関係する」実存方式をとることを意味する。このようなキリスト者からしてみれば、自然的人間が抱えている「苦悩、病気、悲惨、苦難、災い、苦痛、煩悶、悲哀、悲嘆など」は言うに及ばず、肉体上の死ですら不安の対象にならない。キリスト者にとっては、「非本来的な絶望」の範疇であっても、「本来的な絶望」の範疇ではない。上記の引用におけるイエスの弟子たち、或いはラザロの死を悲しむ者たちはみな、未だこの自然的人間であり、非本来的な絶望者である。

 なお、キェルケゴールは自然的人間の特徴をさして、「凡庸さ(Ubetydelighed)」の一言で言い表すことがあるが、その「凡庸さ」というのは、「人生を可能な限り取るに足らないものにすること」、つまり「可能な限り理念を欠き、無精神的か、精神を欠いて生きるかすること」によって、人生を容易にしようとすることである。自然的人間の凡庸さは、客観性や真理を多数に都合のよいもので安易に措定しようとすることに関心を持っているということに表れる。この自然的人間の「凡庸さ」は「キリスト者に成る」=「精神に成る」=「死に切る」ということと対照的であるので、よく押さえておきたいところである。