灰羽連盟とグノーシス-クウにおける開示真理と単独者としての旅立ち-

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「すべてのものがロゴスによって生じた。そしてそれなくしては、無が生じた。ロゴスの内に命があった。生命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった(阻止できなかった)。」『ヨハネによる福音書』1:3-5


この頁はかつてトゥギャッターで提示した『灰羽連盟』におけるクウの描写についての考察を増補し、まとめ直したものです。まず、考察にあたって使われる術語についての説明を施しておきます。

①事実:感性的・感情的・論理形式的に認識される世界のありようのことと捉えてください。

②真理:世界の現象の論理的再構成に関する抽象的な真理命題のことと捉えてください。 私たちは世界を多数の「事実」で知り、「真理命題」の集合体の有機構造の把握形式で思考しているとします。私たちの思考は「真理命題」の有機構造と個々ばらばらな「事実命題」の集合を関係付けて、そこから新しい真理命題を演繹するという論理操作になっているとします。

③ロゴス:私たちの思考は以上の「真理命題」の有機構造と個々ばらばらな事実命題の集合を関係付け、そこから新しい真理命題を演繹するという論理操作になっているとし、このような論理思考を「ロゴス」と呼称することにします。

④開示真理:これはロゴスの演繹展開にあって、何かを契機として突然に「ずれ」が起こるとき、真理命題の構造世界が別の構造世界に切り替わる一瞬にあって、垣間見える「何か」を指します。この「何か」というのは、ロゴスの構造が別の構造に切り替わるとき、その隙間に瞬間に現れる、「「無」への気づき」のことです。これがグノーシス文書で多用される「グノーシス」と同義とします。「開示真理」=「グノーシス」=「無への気づき」はロゴスを前提としていますがロゴスではありませんし、ロゴス的認識でもありません。なぜならこれはロゴスの有機構造のズレ・裂け目に生じる「何か」だからです。

「無とは存在者の『無い』であり、従って存在者から経験される存在[への気付き]である。」(マルティン・ハイデガー『根拠の本質について』)

 

さて、本題に入ります。

私見では『灰羽連盟』の主要テーマは、(中途までは)「人は本来的に「孤独」であり、その立ち位置のまわりには無限の暗黒の深淵があって、人は孤独に生まれ孤独に消え去って行く」というものだったと思われます。この孤独と暗黒とは、自己がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか分からないという闇です。本来的自己が分からないということです。

孤独と本来性の不在のなかで、ある日クウは、「ふと何かが分かって」光となって旅立ちます。クウの名の真名は「空(くう)」[=充満空虚]であったということが我々鑑賞者には見て取ることが出来ます。その名の関連からしてもですが、「空っぽ(欠乏状態)であったコップが充満した」のち、彼女はふっと消え去っていきました。これを私は「グノーシス」によるものに他ならないと考えます。ある日のふとした「無への気づき」である「開示真理」と、孤独の暗黒とは無関係ではありません。「グノーシス」とは、自己の中に自己の本来性の根拠を見出す事(本来的自己の認識)であり、人々の間にある無限の暗黒の深淵が実は既に乗り越えられていると自覚することに他なりません。このことは、劇中においては「空っぽであったコップに満ちていく水滴の一滴一滴がクウの人々との関係に関わるものでもある」ことがすっぽり当てはまっています。「開示真理」=「グノーシス」は、絶望の中に「光」を見いだすことであり、この光は、ロゴスの構造の裂け目にあって垣間見える「無」であって、ロゴスではありません。クウ本人においては、この「開示真理」が彼女に生じたことによって、人々の間にある暗黒の深淵の乗り越えが自覚された、つまり「全き人間」となったのです。『ヘルメス選集Ⅳ ヘルメスからタトへ-クラテール或いは一なる者-』によれば「認識(グノーシス)に与った者は、全き人間となった」とあります。

ヴァレンティヌス派(二世紀のキリスト教グノーシス主義の一派)において、グノーシスの対象は次のように要約されています。「私たちは誰であったか。私たちは何になったか。私たちはどこにいたか。私たちはどこへ投げ入れられたか。私たちはどこへ急いでいるのか。私たちは何によって救済されるのか。誕生とは何か。再生とは何か。私たちを自由にするのはこれらに関する認識である」(アレクサンドリアのクレメンス『テオドトス抜粋集』)。ここで言われていることは取り立てて「ヴァレンティノス派」にのみ当てはまるというわけではなく、他のグノーシス文書にもみられることです。ここに示されているのは、まず、生命が世界の中へ、光が闇の中へ、魂が肉体の中へ「投げ入れられている」ということです(このイメージは、灰羽たちの誕生の仕方においてまざまざと描かれていると思われます)。そしてこの「投げ入れられている」ということは、私たちに加えられた暴力だ、というのは私を問答無用に私が現在いる場所に置き、現在そうである私にするのだから、というのです。また、私が作ったわけでもなく、私が従うべき法の世界とは別の法を持つ世界に、私を見出すという受動性が示されています。そしてこの「投げ入れられている」というイメージは、そのような仕方で始められた実存の全体に、力動的なものという性質を付与しています。この性質はある目標ないし結末に向かって「急ぐ」、というものです。それはつまり、「グノーシス」を獲得したものは、帰結として、「この世」から「過ぎ去って行く者」ないし「旅立っていく者」となる、ということです。グノーシス文書的に言えば、それは「この世」から光の超越的世界であり安息の世界である「プレーローマ」(それは生まれる前の故郷でもある)に帰還する者となることであり、その実は「無」に還る者となることです。例としていくつか上げておきますが、『ヘルメス選集Ⅰ ヘルメス・トリスメギストスなるポイマンドレース』には「本来的自己を智解した者は至高神に還る。なぜならそれは一切の父が光と生命とから成り、人間は彼から生まれたからである。至高神と人間が同じものから成っていることを学ぶなら、自己を知解する者は再び生命に還るであろう」といった趣旨の会話が記述されています。またナグ・ハマディ文書の『真理の福音』にも「もし人に認識(グノーシス)があるなら、その人は上からの者である。もし彼が呼ばれるなら、彼は聞き、答え、彼を呼んでいる者へと向きを変え、彼のもとに昇っていく。そして、彼はどのようにして自分が呼ばれたかを知る。認識(グノーシス)を得て、彼は自分を呼んだ者の意志を行い、彼の意に添うことを欲し、安息を受ける。一人一人の名がその人に帰される。このようにして認識するであろう者は、自分が何処から来て、何処へ行くかを知る。彼は酔い痴れていて、酔いから覚めた者のように、自己を知るのである。彼はおのれに帰って、自分のものを整えたのである」とあります。

灰羽連盟』のクウにおいて生じた「開示真理」=「グノーシス」の獲得そのものは、作中の誰にも理解されないようなかたちで演出されているように思われます。クウはただ、先に述べた「空っぽであったコップが充満した」、「そのコップに満ちていく水滴の一滴一滴がクウの人々との関係に関わるものだ」ということだけがわかるまるで象徴語的なセリフを作中の人々に語るだけです。作中のキャラクターたちには、それが何のことかよくわかりません。普通、人が言葉を発するのは、他者に理解を求めてのこと(つまり人々の心と心の間の通い合わせようとすること)ですが、クウのこの発言の場合はむしろ理解されない、或いは理解されることすら求めていないような言葉の発せられ方をしていると思われます。クウこのような発言は、自己が無へと還り、消え去っていく孤独者(単独者)の発言です。彼女自身そういう自覚のもとに発言していると捉えられます。彼女がそうであるのは、先に述べたように、「開示真理」=「グノーシス」により、自己の中に自己の本来性の根拠を見出しており、人々の間にある無限の暗黒の深淵が実は既に乗り越えられていると自覚しているからです。同じようなことを、我々はイエス・キリストに見て取ることが出来ます。イエスは「人と人の間に神の王国がある」と教えました。その教えだけを見れば、「人と人の間に神の王国がある」というのは、「人の心と心の間に通い合いがある」ということになるでしょう。しかし、そのイエス自身はどうであったでしょうか。彼の言葉は極めて象徴語的です。彼は他者との間に無限の距離があり、他者との間に深淵がある孤独者でした。つまり、イエス自身は「人の心と心の間の通い合いがある」と言う意味で解する限りは「人と人の間に神の王国が成立している」とは到底言えない孤独者でした。イエスの数々の発言もまた、自己が無へと還り、滅び去っていく孤独者(単独者)の発言です。その発言はグノーシスの覚知者の、つまり既に自己の中に自己の本来性の根拠を見出し、人々の間にある無限の暗黒の深淵が実は既に乗り越えられていると自覚している者の発言にほかなりません。このような孤独なイエスという観点から見いだされるのは、「人の心と心の間に通い合いがある」という意味で解される「人と人の間に神の王国がある」という場合の「神の王国」が、実は本当の「神の王国」ではないということを裏書しています。つまり真の「神の王国」は、イエスのような、他者との間に無限の距離があり、他者との間に深淵があるが、その人自身は既にそれを乗り越えていることを自覚しているという孤独者にこそ宿っている、ということになります。クウにはまさに、この真の「神の王国」が宿っているのです。そしてこの神の王国は「この世のもの」ではない。

クウの行動がどのようなものであるかということについて周囲の灰羽たちならびに人々に理解されているのは、ただ灰羽たちの宿命の外観、つまり、灰羽たちがいつかどことなく生まれ落ち、そしてその灰羽たちにいつか「何か」が生じることによって、灰羽たちは独り光となって旅立っていくという宿命の外観だけです。しかし、どうしてそうなるのかは、グノーシスを獲得していない者たちには理解できないし、普段はそれを意識することもありません。通常の日常生活を営んでいることによってそれを覆い隠しているのです。グノーシスを獲得した者だけしかその宿命の本当の理由を理解できないのです。先ほど引用した『ヘルメス選集Ⅳ』の続きには、グノーシスを獲得した者たちとは対照的な者たちとしてそれをロギコイ(ロゴスだけの者)と言い、「ロギコイ(ロゴスだけの者)たちは叡智(グノーシスにあたる)を獲得しておらず、何のために、また何によって生まれたかを知らない」と語られています。周りの灰羽たちにはどうしてかわからないまま、クウは、クウのことを理解は出来ぬが気にかけている他の灰羽たちのことなども意に介しもせず、ただ独りになって、ふっと消え去っていきます。これによって初めてそのような灰羽の宿命を見た主人公ラッカはひどくショックを受けてしまったほどであり、他の灰羽たちも悲嘆にくれます。

作中のキャラクターたちだけでなく、『灰羽連盟』を鑑賞された方々には、このクウの描写が、それ以前の日常描写とはうってかわって極めて異様に、というかある種の不安を煽るような、強烈な「不気味さ」をもって描かれていると映らなかったでしょうか。少なくとも私にはそう演出されているように映りました。これを私なりに整理すると、作中の灰羽たちだけにとどまらず、私たち鑑賞者も含めて、「この世」において日常生活を営むロギコイである者たち、つまり未だグノーシスを獲得しておらず、本来的自己がわからないままであることに心地よさを覚えている者たちである「世人」=「闇の住人」には理解のできない、「光」=「グノーシス」を獲得した者がとる「非-世人」的な行動をクウがとり、それをロギコイたちに、否が応でもまざまざと焼き付けたからではないか、と思われるのです。「不気味」を意味するドイツ語のunheimlichは、ハイデガーによれば語源的には「我が家にあらざる」の意味であるそうですが、「家」を「この世」の象徴語と解するグノーシス文書的にこの意味を捉えるなら、まさにその「不気味さ」は、「この世にあらざる」ことが我々の眼にも強烈に焼き付くが故に生じると言えるのではないでしょうか。『灰羽連盟』のこの演出方法が、私には非常に見事であった上、非常に考えさせられることが多かったと思うわけです。

しかしながら、私見では『灰羽連盟』のこの「人は本来的に「孤独」であり、その立ち位置のまわりには無限の暗黒の深淵があって、人は孤独に生まれ孤独に消え去って行く」を核たるテーマとして描き出されていくストーリーは、クウの場合においてのみ透徹して描き出されていたと思われます。ストーリーの終盤において描き出されるラッカとレキの交流、ないし最後に光となって去っていくレキのストーリーは、その真名の開示という描写に関しては確かに面白いのですが、このテーマの限りではないでしょう。クウの場合は、ある日のふとした気づきによる欠乏状態の充満、孤独の自我にあって光が「神の王国」であり、全ての人は「神の王国」によって安息があるという展望、これがクウの描写には不気味なほどに強烈に見出されていたのですが、レキのストーリーの場合は、その深層心理の描写なにか同じ不気味な描写があっても、クウのそれとは違い、むしろラッカとの心の交流がなければ救いがありませんでした。それが悪いストーリーだと結論づけているわけではありませんが、この点に何かテーマ的にズレを感じてしまっている、というのが拭いきれない、ということを述べて締めくくりたいと思います。