アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート➃

[…]Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nødvendighed, kort en Synthese. En Synthese er et Forhold mellem To. Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv.

I Forholdet mellem To er Forholdet det Tredie som negativ Eenhed, og de To forholde sig til Forholdet, og i Forholdet til Forholdet; saaledes er under Bestemmelsen Sjel Forholdet mellem Sjel og Legeme et Forhold. Forholder derimod Forholdet sig til sig selv, saa er dette Forhold det positive Tredie, og dette er Selvet.デンマーク語原文)

[…]Der Mensch ist eine Synthese von Unendlichkeit und Endlichkeit, vom Zeitlichen und Ewigen, von Freiheit und Norwendigkeit, kurz eine Synthese. Eine Synthese ist ein Verhältnis zwischen zweien. So betrachtet ist der Mensch noch kein Selbst.

In dem Verhältnis zwischen zweien ist als negative Einheit das Verhältnis das Dritte, und die zwei verhalten sich zum Verhältnis, und im Verhältnis zum Verhältnis, so ist unter der Bestimmung Seele das Verhältnis zwischen Seele und Leib ein Verhältnis. Verhält sich dagegen das Verhältnis zu sich selbst, so ist dieses Verahältnis das positive Dritte, und dies ist das Selbst.(トーマス・セーレン・ホフマンによるドイツ語訳)

[…]人間とは、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合、要するに或る綜合である。或る綜合とは、或る二つのものの間の関係である。このように観察するのでは人間はまだ自己ではない。

 二つのものの間の関係においては、その関係そのものは消極的[=否定的]統一としての第三者である。それら二つのものは、その関係に関係する。然して、その関係においてその関係に関係するのである。このようであるのが、魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係である¹⁾。それに対して、その関係がそれ自身に関係するという場合は、この関係は積極的な第三者である。然して、これが自己である。(拙訳)


消極的[=否定的]統一としての第三者について

無限性と有限性、永遠なもの(永遠性)と時間的なもの(時間性)、自由(ここでは可能性に同義)と必然性という各々の二項及びその二項間の関係である綜合は、神:人間における二項及びその二項間の関係が問題となるときに付随する問題系であり、それらは同じ神:人間のことを別の側面から見た様相である。

| 神 |:| 人 |

|無限性|:|有限性|

|可能性|:|必然性|

|永遠性|:|時間性|

 しかし、そのすぐ後に続いているように、この「神:人間」の様相である各々の二項及びその関係は、それだけでみるならば、人間は何ら自己ではないと言われる。「神:人間」の様相である各々の二項関係において、その関係そのものは消極的(否定的)統一としての第三者であると言われるが、これは神:人間、無限性:有限性、自由(可能性):必然性、永遠性:時間性等、当の二つの関係項及びその二項間の関係のほうが第一義的である場合には、二項の関係そのもの(つまりそれも一応は精神でありまた一応は自己であるのだが)外面的な事柄に過ぎないという意味である。言い回し方が難渋ではあるが、二項が「その関係に関係する。然して、その関係においてその関係に関係する」というのも、消極的[=否定的統一(綜合)という関係そのものとしての第三者と各々の二項がそれに関係していることを述べているという点において言っていることは同じである。つまり単なるトートロジーである。

 ただし、ここで一つ厄介な点がある。それはこの後に続いて「このようであるのが、魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係である」と言われている個所である。「魂という規定の下」というところの「魂」は、前ブログの「⑴キェルケゴールの「精神」について」で記しておいたrûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)と対比されるところの、あのnepheš - psychē - Sjel - Seele – 魂である。キリスト教は心身(魂と肉体の)二元論も霊・魂・肉体の三元論も取らず、霊肉二元論をとっているということは既に同じところで述べておいた。この二元論から、魂という規定の下での魂と肉体においては「神:人間」の領域が問題になっているのではなく、単に人間の領域が問題になっているとみなければならない。魂と肉体は、有限性の領域に関わることなのである。このことをキェルケゴールはnegativ(消極的[=否定的])という言葉に含めて言い表した。というのは、キェルケゴールの言語使用においては有限性は常に否定性のもとに帰すからである。

 そしてさらにややこしいのは、この「魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係」といったところの「関係そのもの」である消極的[=否定的]統一としての精神は、この魂と肉体を綜合するだけでなく、一応は自己であるが厳密には「まだ自己ではない」といわれるところの「無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合」も同時に定立するということである。このことはキェルケゴールの別の仮名著作である『不安の概念』に記されている。『不安の概念』には、今しがた述べた外面的な事柄である消極的[=否定的]統一としての第三者たる、関係そのものとしての精神ないし自己を問題にしている側面がある。以下はこのことについての引用と訳出である。

 『不安の概念』第三章には次のように問いが立てられている。

 Mennesket var altsaa en Synthese af Sjel og Legeme, men er tillige en Synthese af det Timelige og det Evige.[…]Hvad den sidste Synthese angaaer, da er det strax paafaldende, at den er dannet anderledes end den første. I den første var Sjel og Legeme Synthesens tvende Momenter, og Aanden det Tredie, dog saaledes, at der først egentlig var Tale om Synthesen idet Aanden sattes. Den anden Synthese har kun to Momenter: det Timelige og det Evige. Hvor er her det Tredie?デンマーク語原文)

 人間は従って魂と肉体の綜合であった。しかしまた時間的なものと永遠なものの綜合である。[…]この最後の綜合に関しては、それが最初のそれとは異なってつくられているということ、そのことがすぐに目を引く。最初には魂と肉体が綜合の二つの契機であり、そして精神が第三者であった。しかし、精神が定立されることによって初めて実際に綜合について問題になったというようにである。もう一つの綜合は、ただ時間的なものと永遠なものという二つの契機のみを持っている。第三者はこの場合どこにあるのであろうか?」(拙訳)

 この問いに対する答えは同じ三章において次のように記述されている。

 Synthesen af det Timelige og det Evige er ikke en anden Synthese, men Udtrykket for hiin første Synthese, ifølge hvilken Mennesket er en Synthese af Sjel og Legeme, der bæres af Aand. Saasnart Aanden er sat, er Øieblikket der.

 時間的なものと永遠なものの綜合は第二の綜合なのではない。そうではなくて、人間が精神によって支えられている魂と肉体との綜合であるという、あの第一の綜合に対する表現である。精神が定立されるや否や、瞬間がそこにある。(拙訳)


 Øieblikket er hiint Tvetydige, hvori Tiden og Evigheden berøre hinanden, og hermed er Begrebet Timelighed sat, hvor Tiden bestandig afskærer Evigheden og Evigheden bestandig gjennemtrænger Tiden.

 瞬間とは、その中で時間と永遠が互いに接触する、あの両義的なものである。そして、その中で時間が永遠を常に切り取り、永遠が常に時間に滲透する、時間性という概念が定立されている。(拙訳)

 

 Synthesen af det Sjelelige og det Legemlige skal sættes af Aand, men Aanden er det Evige, og er først derfor, naar Aanden sætter den første Synthese tillige som den anden Synthese af det Timelige og det Evige. デンマーク語原文)

 魂的なものと肉体的なものの綜合は、精神によって定立されるべきである。しかし精神は永遠なものである。綜合はそれ故に、精神が第一の綜合を同時に、時間的なものと永遠なものの第二の綜合と同様に定立する時に初めて在るのである。(拙訳)

 

 この消極的[=否定的]統一を契機として、その関係そのものとしての精神ないし自己において、有限性の領域である魂と肉体が綜合されると同時に、「神:人」の綜合がなされ、その関係がそれ自身に関係するという動きを持つ次元へと移行すると、積極的第三者としての精神ないし自己の次元に移行するのである。

 

アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート③

 Mennesket er Aand. Men hvad er Aand? Aand er Selvet. Men hvad er Selvet? Selvet er et Forhold, der forholder sig til sig selv, eller er det i Forholdet, at Forholdet forholder sig til sig selv; Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nødvendighed, kort en Synthese. En Synthese er et Forhold mellem To. Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv.(デンマーク語原文)

 

 Der Mensch ist Geist. Aber was ist Geist? Geist ist das Selbst. Aber was ist das Selbst? Das Selbst ist ein Verhältnis, das sich zu sich selbst verhält, oder ist das im Verhältnis, daß sich das Verhältnis zu sich selbst verhält; das Selbst ist nicht das Verhältnis, sondern daß sich das Verhältnis zu sich selbst verhält. Der Mensch ist eine Synthese von Unendlichkeit und Endlichkeit, vom Zeitlichen und Ewigen, von Freiheit und Norwendigkeit, kurz eine Synthese. Eine Synthese ist ein Verhältnis zwischen zweien. So betrachtet ist der Mensch noch kein Selbst.(トーマス・セーレン・ホフマンによるドイツ語の逐語訳)

 

 人間とは精神¹⁾である。しかし精神とは何であるか?精神とは自己²⁾である。しかし自己とは何であるか?自己とは、その関係がそれ自身に関係するという或る関係である。或いは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するという[その動きの]ことである。自己とは、その関係ではなく、その関係がそれ自身に関係するという[その動きの]ことなのである³⁾。人間とは、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合、要するに或る綜合である。或る綜合とは、或る二つのものの間の関係である。このように観察するのでは人間はまだ自己ではない。(拙訳)

  

⑴キェルケゴールの「精神」について
 精神と訳されているデンマーク語のAand(現代ではÅnd)は、語源的にはラテン語のanima(息とか空気)、animus(心)と関連し、また、ギリシャ語のánemos(風)と関連している。しかしキェルケゴールは、むしろキリスト教の伝統に根差して、Aandを聖書におけるヘブライ語のrûah(ルーアハ)及びそこから受け継がれたギリシャ語のpneuma(プネウマ)に対応させている。ドイツ語訳ではもちろんGeistと訳されるが、キェルケゴールの訳の場合、このGeistもその理解に則って理解されねばならない。このrûah及びpneumaは、それぞれ聖書においてはヘブライ語のnepheš(ネフェシュ)及びそれから受け継がれたギリシャ語のpsychē(プシュケー)と相互対の関係にある。この語について対応させられているデンマーク語はSjel(魂・心)であり、ドイツ語訳ではSeeleがこれに当てられている。rûah - pneuma - Aand - Geist及びnepheš - psychē - Sjel - Seeleは、日本語訳聖書ではそれぞれ「霊」と「魂(心)」と訳される。rûahは元来は「風」「息」といった意味であり、『創世記』第二章第七節で「主なる神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり。人即ち生靈となりぬ」と言われているときの、「生氣(命の息)」がこれに当たる。rûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)という語は、神と人間の関連(以下これを説明の便宜上「神:人間」と表記する)が問題となる場合に用いられ、nepheš - psychē - Sjel - Seele - 魂という語は、肉体(sarksないしsoma(身))と共に、人間自体が問題となる場合に用いられる。キリスト教においては魂(心)と肉体(身)の二元論(心身二元論)は存在しない。あるのは霊肉二元論である。魂は神の霊と呼応することができるが、肉体を離れるわけではない。キリスト教において語られる霊(精神)・魂(心)・肉体(身)は三元論ではないのである。このことから、「人間は精神である」という表現には「人間は霊的人間になる可能性を持った存在である」ということ、それに加えて、だからこそ「人間は、神の霊の働きかけによって、或いは、神の霊によって生かされる霊的人間へと絶えず生成すべきである」といった当為の意味を含めて考えなくてはならない。というのは「人間はrûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)である」と言われながら、キリスト教の観念において人間自体が問題となる場合には心身の関連の領域が問題であって、「神:人間」の領域が問題とならないからである。このように、「人間は精神である」とキェルケゴールが言うとき、そこには「人間は精神となるべきである」のだと言う当為の意味を含めて語っているのである。なぜなら人間は、自然な在り方で直ちに精神であるとは言えないからである。これは「神:人間」について真正であることの当為、つまり信仰が問われているのである。

 

⑵キェルケゴールの「自己」について
 キェルケゴールの「自己」の最も基本的なことは以下の三点である。

①自己とは派生的な措定されたものであるということ。
②自己とは常に絶えず生成するものであるということ。
③自己の存在の重さ。

①自己が何によって措定されているかと言えば、他者=神によってである。事実が真実であるのは神が機縁として働くからである。我々が勝手な思いで、言葉で分節化しながら生きているその一歩前に、永遠の生命=神は最初の御方として、機縁として、刻々と働いている。キェルケゴールの「自己」の概念を理解するにはまず、我々の全ての散漫な状態と神の機縁としての働きの別を徹底的に自覚しなければならない。

「何度も人生を通じて日毎、あなたは最初に私たちを愛される。私たちが朝目覚めて、あなたに思いを向ける時、――あなたは最初の御方であり、あなたは、まず私たちを愛される。たとえ私が夜明けに立ち上がって、祈りにおいて私の思いをあなたに向ける時でさえ、あなたは私にとってあまりにも先んじておられる。あなたが私をまず愛されるのだ。私が全ての三万から私の思いを集中しあなたを深く思うとき、あなたはまず最初の御方である。」(キェルケゴールの遺稿より。山下秀智『哲学書概説シリーズⅥ キェルケゴール『死に至る病』』p.28)

②自己は常に絶えず生成しつつある。それは「自己とは、その関係がそれ自身に関係するという或る関係」だからである。『死に至る病』で分析展開される種々の絶望状態にあってもこれは妥当しており、信仰状態にあっても変わりはない。特に信仰者になるとあたかもどこか陸地に到着したように考えるのは全くの間違いである。

「一体どれぐらいの人が、現実に神-関係を持つに至ると、人生が疲労困憊するものになるかということを理解しているだろうか。完全に習慣的な保証(日常的な安定)が奪われること(たいていの人はある年齢に達すると、彼らの成長も終息し、生活も単なる繰り返しになり、そう、殆ど定期的反復に過ぎなくなるのだが)、ただそのことが起こるのだ、そう、安定の保証が完全に奪われるのだ!その一方で、日常的な畏れと戦きが、毎日毎日、またその日の全ての瞬間、最大の重要性を持つ決断の内へと入り込むのである――正確に言えば、全ての精神の-実存(enhver Aands-Existents)は、「七万尋の水上」に存在するのだから、こうした畏れと戦きの場に生きることになるのだ。」(キェルケゴールの遺稿より。山下秀智『哲学書概説シリーズⅥ キェルケゴール『死に至る病』』p.30)

③自己の存在の重みは、「神の前に立つ単独者」というキェルケゴールがよく使う表現に現れている。単独者の原語はden Enkelteであるが、この語は、日本語で単独者といった場合に見て取れてしまうような、独我論的な意味を含んだ強い自意識を持った存在といったニュアンスを全く持っていない。それはキェルケゴールの考えているニュアンスとは全く異なっていることに注意しなければならない。キェルケゴールの自己は、隔離された絶海の孤島にいるのではない。大海の一滴でありながら、海を構成している掛替えのない存在、それがこのden Enkelteであり、永遠の生命=神との関係を自覚した存在というのが、その本来の意味である。キェルケゴールは、ただ信仰者の信仰の飛躍の敢行においてのみ、神は人間にとって現実性となるとする。この飛躍以前には、神は現実には人間にとって実存せず、神はただ抽象的な可能性に過ぎない。言い換えれば、この飛躍以前には、内在的に(抽象の想像的媒介において)、神は実存しないし、現存しない。実存する人格が信仰を持たないなら、その人間にとって神は存在しないし、現存しないというわけである。『マタイによる福音書』8章13節には「行け、汝の信ずるが如く汝に成れ」、同9章29節には「汝らの信ずるが如く汝らに成れ」とあるが、キェルケゴールはまさにこれを参照しながら『死に至る病』の第二部第二章「罪のソクラテスの定義」で「汝らの信ずるが如く汝らに成れ」という言葉を、「汝の信ずるが如く、汝は在る」「信ずることが存在することである」と言い換えている。そして同じところで彼はこれをデカルトの有名な命題「私は考える、ゆえに私は在る」→「考えることが存在することである」と対立させている。これは更に、「神が天に在ますが故に、信ずることができる」、ということと合わせてみる必要がある。キェルケゴールによれば、神は人間に無限に近く、同時にまた、無限に遠い。デカルトはレス・コギスタンスとしての主体を確立して神の存在証明に向かったが、キェルケゴールはこうした証明を全く認めなかった。絶望の原語であるFortvivlelseには懐疑ないし不信を意味するTvivlが含まれている。デカルトのレス・コギスタンスとしての主体では、神によって刻々と創造せられつつあるにもかかわらず(その意味では、神は近いというよりも自己に即している)、その根本地盤を離陸してしまう。だからそうなると、生ける神は無限に遠くなり、信仰からも程遠くなってしまい、神もまたその働きようがなく、存在しないも同然になってしまうのである。これはキリスト者であることがいかに重い責任があるかを証し、同時にそのことで自己の存在の重みを証するものなのである。

 

⑶文法・訳文解説

1⃣最初の一文におけるsig selv=sich selbstのsig=sichは、関係文の主語をなす関係代名詞der=dasの再帰代名詞である。この関係代名詞der=dasは主文の述語であるet Forhold=ein Verhältnisを先行詞としているから、関係代名詞der=dasの再帰代名詞であるsig selv=sich selbstのsig=sichは「関係」にあたる。

2⃣elleroder以下のer det i Forholdet, at …ist das im Verhältnis, daß …においては、detdasatdaß節以下の文の先行詞である。したがって、「自己とは、その関係において、atdaß節以下ということである=Forholdet forholder sig til sig selvsich das Verhältnis zu sich selbst verhält=その関係がそれ自身に関係するということである」となる。

3⃣著者が「自己とは何か?」ということに対する回答として強調したいのは、ただ単に名詞で表されるところの「その関係」ではなく、「Forholdet forholder sig til sig selv=sich das Verhältnis zu sich selbst verhält=その関係が関係自身に関係する」というその動きそのもののことであるから、「その動きの」と補填した。「その関係がそれ自身に関係するという或る関係」というのは運動概念であることを三度繰り返し別の言い方で強調しているのである。これは外面的な出来事ないし行為ではなく、内面的に行為することであり、内面性の事柄である。言い換えると「自己意識すること」=「自己自身を反省すること」である。「この自己意識は観照ではない。というのは、そう信じている者は自分自身を理解しなかったのである。なぜなら、彼は、自分自身同時に生成の中におり、それ故に観照のために完結したものでありえないということを知るからである。この自己意識はそれ故に行為である。そしてこの行為は更にまた内面性である」(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)『不安の概念』より)。

4⃣「自己とは何か?」という問いに対する回答、つまり人間の本質であるとされたBestemmelseBestimmung=規定・使命である成るべきところの自己(本来的自己)として強調されていることは、「神:人間の関係において、その関係がそれ自身に関係するというその動きのこと」である。また、最初の一文のet Forholdein Verhältnis=或る関係というところが不定冠詞eteinであることから、自己であるとされる「その関係がそれ自身に関係するという動きとしての或る関係」は、多数ある「その関係がそれ自身に関係するという動きとしての関係」の内の任意の一つであるということを見て取っておく必要がある。

5⃣「関係する」にあたるforholde sigsich verhaltenの語義について。桝田啓三郎(ちくま学芸文庫版『死に至る病』訳註)によれば、語源的にはまずドイツ語のverhaltenという動詞に従ってデンマーク語のforholdeという動詞が作られ、このforholdeを動詞的名詞化したものがForholdという名詞である。Forholdは、元来は「何かが逃げないように力ずくでしっかりとつかまえておく」という意味であったが、1700年頃からドイツ語から借用されるか、或いはドイツ語の影響を受けるかして、ドイツ語のVerhältnisと同じような意味で用いられるに至った語であるとされる。元の動詞forholdeは、ドイツ語においてverhaltensich verhaltenという再帰動詞としてよく用いられるのと同様に、forholde sigという再帰動詞として用いられる。その意味は次の通りである。

①「ある身構え、姿勢、態度をとる」→「…のやり方をする、…に振る舞う、…の行動をとる、…の態度で対処する」

②多くの場合非人称主語と共に、「物事が…の事情(状態)にある」

③「…に対して或る関係に立つ」、特に「誰かが誰かと知り合いになる」「誰かに対して依存関係に立つ」

④「何かが何かと対応している、比例している」

以上の意味が「forholde sig=sich verhalten=関係する」に全て備わっていると捉えておきたい。またforholdeの動詞的名詞Forholdは通常①からの意味、つまりその都度の場合場合における「態度、行動、挙動」の意味、特に比較的持続的な「人間の全人格的な行動ないし態度」の意味に用いられる。ドイツ語の場合は動詞verhaltenからVerhalten「態度、行動、挙動etc.」とVerhältnis「関係、比、釣り合いetc.」との二つの名詞ができたが、デンマーク語の場合は動詞forholdeからできた名詞Forhold一語がドイツ語で言うところのVerhaltenとVerhältnisの両方の意味を持っており、しかも「態度、行動、挙動」が第一義である。名詞Folholdの語義も、上記のような本来の語義を絶えず念頭に置いて読む必要がある。キェルケゴールの文脈においてはなお、Forhold及びforholde sigの以上の意味はすべて、「神:人間」に関わっているものである。

 

グノーシス用語辞典(ら行)

グノーシス用語辞典

楽園/パラダイス
 旧約聖書『創世記』のエデンの園は「東の方」に設けられたとされ、読者には平面での連想を誘う。しかし、新約時代になると、それとは対照的に垂直軸に沿って楽園を「第三の天」に位置づける見方があったことは、すでに『コリント人への第二の手紙』におけるパウロの証言から知られる。グノーシス主義の神話でも原則として常に垂直軸での見方が前提されている。たとえば、『ヨハネのアポクリュフォン』が「楽園への追放」に続いて「楽園からの追放」について物語る場合も、上から下へと話の舞台が下降してゆくのである。『アルコーンの本質』でもアルコンテスが心魂的アダムを楽園へ拉致する。『この世の起源について』でも同様であるが、その場所は「正義」なるサバオートによって造られた月と太陽の軌道の外だという。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派グノーシス主義の教説においては、デミウルゴスの下の第四の天のことで、アダムの住処。『三部の教え』では、ロゴスが過失の後に生み出したプレーローマの不完全な模像たちが置かれる場所。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、半処女エデンと「父」エローヒームの満悦から生まれた天使群の総称。『フィリポによる福音書』はこれらの事柄とは対照的に積極的な意味の楽園について頻繁に語るが、その空間的な位置づけは不明である。

霊/霊的
 宇宙万物が霊、心魂、物質(肉)の三つからなると考える、グノーシス主義の世界観における最高の原理および価値。ほとんど常に他の二つとの対象において言及される。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説によれば、物質的世界に分散している霊は滅びることはありえず、終末においてプレーローマに受け入れられる。

ロゴス/ことば/言葉
 「ロゴス」は古典ギリシャ語からヘレニズム時代のコイネー・ギリシャ語に至るまで、人間の言語活動と理性に関わる実に幅広い意味で用いられた。それは発言、発話、表現、噂、事柄、計算、知らせ、講話、物語、書物、根拠、意義、考察、教えといった日常用語のレベルから、「世界理性」や「指導的理性」などの哲学的述語(ストア派)のレベルにまでわたっている。ナグ・ハマディ文書を含むグノーシス主義文書は、前者の日常的な語義での用法も、たとえば『復活に関する教え(ロゴス)』のほか、随所で見せているが、神話論的に擬人化して用いる場合が多い。その場合の「ロゴス(あるいは「言葉」)」は、プレーローマ内部の高次のアイオーンであり、神的存在の一つである。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では「ゾーエー(生命)」と、『ヨハネのアポクリュフォン』では「真理」とそれぞれ「対」を構成する。『エジプト人の福音書』では神的アウトゲネースの別名。また、ありとあらゆる箇所で、神的領域から出現する終末論的啓示者として描き出されている。『三部の教え』では、「父(至高神)」の「思考」として成立するアイオーンたち、あるいは「父」の「ことば」としての「御子」も指すが、圧倒的に多くの場合、プレーローマの最下位に位置する男性的アイオーン「ロゴス」を指す。この場合の「ロゴス」はソフィアと同じく過失を犯すもので、そこから下方の世界が生成されていくことになる。『フィリポによる福音書』でも超世界的でありながら、肉の領域に内在する神的存在を表しているが、どのような神話論的な枠組みを前提するものなのか不詳である。同書では、正典福音書でイエスの口に置かれている言葉を「ロゴスが言っている」/「ロゴスは言った」の表現で導入する点で、殉教者ユスティノスやエイレナイオスなどの護教家のロゴス・キリスト論の表現法と共通している。

 

グノーシス用語辞典(や行)

グノーシス用語辞典

ヤルダバオート/イアダルバオト/イアルダバオト
 可視的な中間界以下の領域を創造して、支配する造物主デミウルゴスに対する最も代表的な呼称。「サクラ(サクラス)」あるいは「サマエール」とも呼ばれる。プレーローマの中に生じた過失から生まれる、いわば流産の子で、自分を超える神はいないと豪語する無知蒙昧な神として描かれる。多くのグノーシス主義救済神話は、旧約聖書の神ヤーヴェのもつ「荒ぶる神」としての位格と、「不可知的存在」としての神の本質および「愛の神」「義の神」といった側面を引き裂き、前者をこのヤルダバオートに同定させ、後者を超越的善にして不可知なる神としての至高神に対応させる形をとり、特にそれは創世記の冒頭の創造物語と楽園物語に対して価値逆転的な解釈を展開する形で描かれる。
 ヤルダバオートという名称そのものが、ヤーヴェを呪われたる偽りの神として貶めるための造語である。『この世の起源について』はその語義を「若者よ、渡ってきなさい」の意であると説明する。この説明はおそらく、シリア語で「ヤルダー」が「若者」、「ベオート」が「渡れ(命令形)」の意であることに基づくものと思われる。しかし同時に、同じ『この世の起源について』では、ヤルダバオートを「奈落(カオス)」を母とする子として説明している。シリア語で「奈落」あるいは「混沌」は「バフート」であるから、ヤルダバオートは「奈落を母とする若者」の意になり、この合成語の意味を早くから「混沌の子」と説明してきた古典的な学説と一致することになる。さらに、アラム語で「――を生む者」の意の「ヤレド」に目的語として「サバオート」がついた形と見做して、「サバオートを生む者」の意とする説もあり、特定できない。

 

グノーシス用語辞典(ま行)

グノーシス用語辞典

見えざる霊
 「処女なる霊」と一組で用いられて至高神を指す場合が多い。

モノゲネース
 ギリシャ語で「独り子」の意。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派グノーシス主義の教説においては、至高神(ビュトスあるいはプロパトール)とその女性的「対」(エンノイアあるいはシゲー)から生まれ、キリストと精霊を流出する存在。『ヨハネのアポクリュフォン』では、アウトゲネース、すなわちキリストと同定される。

模倣の霊/忌むべき霊
 ギリシャ語「アンティミーモン プネウマ」の訳。『ヨハネのアポクリュフォン』において集中的に言及される。特にその歴史的起源を補論の形で論じる箇所によれば、プレーローマから派遣された「光のエピノイア」を見た悪の天使たちが、それに似せて造り出し、人間の娘たちを誘惑して子供を産ませる力とされている。

 

グノーシス用語辞典(は行)

グノーシス用語辞典

場所
 グノーシス主義の神話では「あの場所」、「この場所」というような表現で超越的な光の世界と地上世界を指し、「中間の場所」でその中間に広がる領域を表現することが多い。『三部の教え』では、否定神学の意味で、神は「場所」の中にいないといわれ、万物の父(至高神)がアイオーンたちにとって「場所」である(『真理の福音』では、父は自らの内にあるすべての「場所」を知っている)と言われる。さらに同書では、ロゴスの過失によって生み出された造物主が、彼の創造物にとって「場所」であると言う。これらの場合の「場所」は一つの述語として用いられており、その背後には原理としての「質料」を「場所」と定義した中期プラトン主義(アルキノス『プラトン哲学要綱』)などの影響が考えられるかもしれない。『トマスによる福音書』では「光」あるいは「王国」と同意。

パトス
 熱情あるいは受難を意味するギリシャ語。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、ソフィアがその本来の男性的伴侶であるテレートスとの抱擁なしに陥った、父(至高神)を知ろうとする熱情のことで、エンテュメーシス(意図)とともにホロス(境界)の外へ疎外される。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、エローヒームによって地上に取り戻された半処女、「母」エデンがエローヒームに欲情する熱情。

バルベーロー/バルベーロン
 いくつかのグノーシス主義救済神話において、至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在。『ヨハネのアポクリュフォン』では「プロノイア」、「第一の人間」、「万物の母体」、「母父」とも呼ばれ、神話の隠れた主人公の一人であり、最後に自己自身を啓示する。『三体のプローテンノイア』では、プローテンノイアの別名で登場する。エイレナイオスの『異端反駁』は、『ヨハネのアポクリュフォン』のバルベーローに関する記述に相当する部分を要約的に報告して、それを「バルベーロー派」の神話だという。しかしそのバルベーロー派と目されるグノーシス主義の歴史的実態については、やはりエイレナイオスによって報告されるセツ派などの他のグノーシス主義グループの場合と同様、詳細は不明である。「バルベーロー」の語源・語義については、伝統的にヘブル語で「四つの中に神在り」の意の文を固有名詞化したものだとされてきた(この場合、「四」とはプレーローマの最上位に位置する四個組の高次アイオーン、すなわちテトラクテュスを指す)。しかし最近では、コプト語ないしそれ以前のエジプト語で「発出」を意味する「ベルビル」と「大いなる」の意の「オー」とから成る合成語で、「大いなる発出」の意味だとする仮説が唱えられている。

範型
 シリア・エジプト型のグノーシス主義の神話では、基本的にプラトン主義のイデア論に準じて、「上にあるもの」の写し(コピー)として「下のもの」が生成すると考えられている。その場合、「下のもの」が「像」、「影像」、「模像」、「似像」、「模写」と呼ばれるのに対し、「上のもの」が「範型」と呼ばれる。『ヨハネのアポクリュフォン』では、無知蒙昧なる造物主ヤルダバオートがソフィアから抜き取った「不朽の型(=範型)」に倣ってこの世の宇宙万物を「像」として生み出したと説明されている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、プレーローマのキリストがホロス(別名スタウロス=「十字架」)に体を広げて、アカモートの過失を止めた事件が、歴史上のイエスの十字架刑の範型とされている。「範型」と「模像」を対句で用いるのは『フィリポによる福音書』である。

万物
 グノーシス主義神話の述語としては、中間界および物質界と区別された超越的な光の世界プレーローマの同義語として使われる場合が多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、ギリシャ語の全称の形容詞を名詞化した「パンタ」という表記で言及される。ナグ・ハマディ文書の多くは、コプト語の全称の形容詞“têr”(=「すべての」、「全体の」)に男性単数の定冠詞と所有語尾を付して名詞化した形(“ptêrif”)で用い、さまざまな神的アイオーンから成るプレーローマを集合的に表現する。集合的単数の性格は、特に『アルコーンの本質』の万物が並行する『この世の起源について』では、「不死なるものたち(諸至高霊たるアイオーンたち)」と言い換えられていること、また『エジプト人の福音書』が「すべての(“têrif”)」という形容詞をプレーローマに付して、その全体性を表現していることによく現れている。ただし、『三部の教え』では、同じ集合的単数(“ptêrif”)は、すべてのアイオーンを包括する「父(至高神)」の全体性を現す。プレーローマの個々のアイオーンはその単数形をさらに複数形にして(“niptêrif”=いわば「万物たち」)表現される。例外的な用例としては、プレーローマのみならず、下方の領域までの総体を包括的に指す場合、あるいは逆に限定的に、プレーローマ界より下の領域を指す場合がある。

万物の父
 グノーシス主義における至高神(第一の人間)の別称。『ヨハネのアポクリュフォン』、『三部の教え』などでは、表現しえない至高神を何とか表現しようとして、延々と否定形で記述するという形で、至高神について語っている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では「生まれざる父」、ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では三重の「子性」の父として「存在しない神」とも呼ばれる。ただし、ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、例外的に至高神より下位の存在。すなわち「生まれた万物の父」であるエローヒームと同定される。

光り輝くもの/フォーステール
 ギリシャ語フォーステールの訳。『ヨハネのアポクリュフォン』では、プレーローマの内部でアウトゲネース(キリスト)から生成する四つの大いなる光のことで、それぞれ三つずつのアイオーンを従えている。『アダムの黙示録』では、セツの子孫たるグノーシス主義者を指す。同書では大いなるアイオーンから認識をもたらす啓示者を指す。その啓示者たちの名前はイェッセウス、マザレウス、イェッセデケウスである。なお、この名称は、『フィリポに送ったペテロの手紙』ではイエスに、『ヤコブの黙示録Ⅱ』ではヤコブに帰されている。

左のもの/右のもの/左手/右手
 「右のもの」が積極的な意味で用いられるのに対して、「左のもの」は常に否定的な意味で用いられる。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、「左のもの」はソフィアのパトスから派生した物質を指し、「右のもの」、つまり心魂的なものと対照されている。『アルコーン本質』では、改心したサバオートとその右手のゾーエーが積極的に評価されることとの対照で、左手は専横、あるいは邪悪を意味する。『この世の起源について』では、ヤルダバオートがもらい受けるピスティス・ソフィアの左の場所は「不義」と呼ばれ、右が「正義」と呼ばれることと対照されている。『フィリポによる福音書』では、右は「善きもの」、左は「悪しきもの」とされ、十字架が「右のもの、左のもの」と呼ばれる。『三部の教え』では「左の者たち」=物質的種族が負の存在として、「右の者たち」=心魂的種族と対照されている。『真理の福音』では、99までは左手で数えられ、1を欠くので欠乏を、99に1を足して100からは右手で数えられるので、右は完全を表す。

復活
 本質的には人間が本来的自己を覚知することを意味する。したがって、時間的な側面では、新約聖書の復活観とは対照的に、死後の出来事ではなく、死より前、生きている間に起きるべきこととなる。場所的な側面では、この世あるいは「中間の場所」から本来の在り処であるプレーローマへ回帰することが、人間の肉体的な死であると同時に、霊的な復活を意味する。『復活に関する教え』はこの二つの意味での「霊的復活」について語る。復活に関しては『フィリポによる福音書』、『復活に関する教え』、『魂の解明』、『真理の証言』、『シェームの釈義』などに詳しい記述がある。子宮とも密接に関連しているが、復活の概念はグノーシス主義の死生観において逆説的な表現が入り乱れるキータームである。
グノーシス主義の死生観(詳細説明執筆中)

物質/質料
 ギリシャ語「ヒューレー(hylê)」の訳語。この同じギリシャ語を中期プラトン主義は「神」、「イデア」と並ぶ三原理に一つ、「質料」の意味で用いるが、グノーシス主義は肉、肉体、あるいは泥などとほぼ同義の否定的な意味合いで用いることが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、アカモートの陥った情念から派生する。『ヨハネのアポクリュフォン』、『真理の福音』では、初めから存在が前提されているもの、つまり一つの原理として、いささか唐突に言及される。反対に『この世の起源について』では、「垂れ幕」の陰から二次的に生成し、カオスの中へ投げ捨てられて、やがてヤルダバオートの世界創造の素材となる。『アルコーンの本質』でも、上なる天と下の領域を区切るカーテンの陰から生成し、やがてピスティス・ソフィアの流産の子サマエールを生み出す。同書では「闇」あるいは「混沌(カオス)」と同義である。

プレーローマ
 ギリシャ語で「充満」の意。至高神以下の諸至高霊アイオーンによって満たされた超越的光の世界を表現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語である。しかし必ずしもどの文書にもこの述語が現れるというわけではない。たとえばヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデスの教説では、プレーローマの代わりに「超世界」、『アルコーンの本質』と『この世の起源について』ではオグドアス、あるいは「八つのもの」という表現が用いられている。この語が複数形で用いられ、「父のすべての流出」を指す場合もある。
 なお、分析心理学者C.G.ユングは、『死者への七つの語らい』でプレーローマ(邦訳ではプレロマと表記されている)を、形も音もなく、無であり空であるが、すべての対立する特性で充溢されているという、「原初空虚=充満空虚」だと説明している。その上でユングは、アブラクサスについて、神と悪魔の上に立つ至高者として、また不可知的超越世界の空無の特性をそのまま具現化した「不可能な存在」として語っている。
アブラクサスの伝説(執筆中)

プロノイア
 ギリシャ語で「摂理」の意。ストア哲学では宿命(ヘイマルメネー)と同一で、神的原理であるロゴスが宇宙万物の中に偏在しながら、あらゆる事象を究極的には全体の益になるように予定し、実現していくことを言う。あるいは中期プラトン主義(偽プルータルコス「宿命について」)においては、恒星天ではプロノイアが宿命に勝り、惑星天では均衡し、月下界では宿命がプロノイアに勝るという関係で考えられる。グノーシス主義はストアにおけるプロノイアと宿命の同一性を破棄して、基本的に宿命を悪の原理、プロノイアを至高神に次ぐ位置にある救済の原理へ二分割するが、文書ごとに微妙な差が認められる。『ヨハネのアポクリュフォン』はプレーローマ界に二つのプロノイア、中間界にもう一つのプロノイア、地上界に宿命を配置するが、『この世の起源について』はプレーローマ、中間界、地上界のそれぞれに一つずつプロノイアを割り振り、中間界と地上界のそれについては宿命と同一視している。『エジプト人の福音書』でもそれはみられるが、「大いなる見えざる霊(父・至高神)」との関係、あるいはその他の点での神話論的な位置づけが明瞭に読み取れない。

ヘプドマス/七つのもの
 ギリシャ語で「七番目のもの」あるいは「七つのもの」の意。グノーシス主義神話では造物主デミウルゴスとその居場所を指すことが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、オグドアス(八つのもの)と呼ばれる母アカモートの下位にいるデミウルゴスのこと。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では、オグドアスにおける「大いなるアルコーン」とその子アブラクサスの下位に位置する神「別のアルコーン(旧約聖書の神ヤハウェに相当)」とその息子の住処とされている。『ヨハネのアポクリュフォン』では一週七日(「週の七個組」)の意。『この世の起源について』では、本文が欠損していて確定しにくいが、おそらく第一のアルコーンの女性名である。『エジプト人の福音書』ではプレーローマ内の存在の何らかの組み合わせを指すが、詳細は不詳である。

母父/メートロバトール
 ギリシャ語「メートロバトール」の訳。このギリシャ語は通常は母方の祖父の意味であるが、『ヨハネのアポクリュフォン』の特に長写本は両性具有の存在バルベーローを指して用いている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、造物主デミウルゴスの別名である。

 

グノーシス用語辞典(な行)

グノーシス用語辞典

七人
 ヘレニズム時代に一般的に七つの領域と見做されていた月、太陽、金星、水星、火星、木星土星が神話論的に擬人化されたもので、中間界以下の領域の悪しき支配者(アルコーン)。ギリシャ語魔術文書や広範なグノーシス主義文書に、それぞれ隠語化された名前で登場する。『ヨハネのアポクリュフォン』に列挙される名前は、黄道十二宮を同様に擬人化した「十二人」と一部重複するが、七という数字は、一週間の日数として説明される。同時に、七人のそれぞれが男性性と女性性の「対」関係が置かれる。『この世の起源について』では、ヤルダバオートを含めて総称的に「アルコーンたち(アルコンテス)」、「支配者たち」、「権威たち」と呼ばれ、カオスから男女(おめ)として出現する。ナグ・ハマディ文書以外では、マンダ教文書にまったく独自のマンダ語の名前で頻繁に登場する。エイレナイオス『異端反駁』のセツ派についての報告、オリゲネスの『ケルソス駁論』、エピファニオスの『薬籠』のフィビオン派についての報告などにもさまざまな名前で登場する。七つの惑星の述べ方の順番(特に太陽の位置)については、ストアや中期プラトニズムなどの学派哲学の宇宙論においてさえ諸説があったため、グノーシス主義文書に隠語で言及される「七人」が、それぞれどの惑星に対応するかは一概に決められない。

肉/肉体/肉的
 宇宙と人間を、霊的なもの、心魂的なもの、肉的(物質的)なものの三分法で考えるグノーシス主義の世界観における最下位の原理で、「物質」あるいは「泥」と同義であることが多いが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説に見られるように、泥から由来する身体と区別して、四分法的に語られることがある。『フィリポによる福音書』は一方で肉体の無価値性を断言するが、他方で「肉にあって甦ることが必要である」とする。『復活に関する教え』は置いた肉体を胞衣(えな)に譬える。

ノーレア
 『アルコーンの本質』では、アダムとエバがセツを産んだ後にもうけた娘で、理屈ではセツの妹であると同時に妻であるという近親婚的関係にあることになる。しかし、同書ではむしろノアの妻であることが前提されていると思われる。この二系統の表象はその他のグノーシス主義文書の間にも認められる。エイレナイオス『異端反駁』とエピファニオス『薬籠』に報告されているセツ派は前者であり、また同書のエピファニオスによって報告されている『ニコライ派』とマンダ教は後者に属する。特に後者の表象系統では、ノーレアは夫のノアがこの世の支配者であるアルコーンに仕えたのに対して、超越的な神バルベーローに仕える存在であり、ノアが造った方舟に立ち入りを拒まれると、三度までもそれを焼き払ったという。ヘレニズム期のユダヤ教のハガダー(物語)伝承にも、ナアマという女性が一方ではセツの妹かつ妻として、他方ではノアの妻として言及される。ノーレアという名前は、基本的にはそのナアマがギリシャ語化したものとする説が有力である。ナグ・ハマディ文書の中では『ノーレアの思想』と『この世の起源について』に言及がある。