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グノーシス用語辞典(や行)

グノーシス用語辞典

ヤルダバオート/イアダルバオト/イアルダバオト
 可視的な中間界以下の領域を創造して、支配する造物主デミウルゴスに対する最も代表的な呼称。「サクラ(サクラス)」あるいは「サマエール」とも呼ばれる。プレーローマの中に生じた過失から生まれる、いわば流産の子で、自分を超える神はいないと豪語する無知蒙昧な神として描かれる。多くのグノーシス主義救済神話は、旧約聖書の神ヤーヴェのもつ「荒ぶる神」としての位格と、「不可知的存在」としての神の本質および「愛の神」「義の神」といった側面を引き裂き、前者をこのヤルダバオートに同定させ、後者を超越的善にして不可知なる神としての至高神に対応させる形をとり、特にそれは創世記の冒頭の創造物語と楽園物語に対して価値逆転的な解釈を展開する形で描かれる。
 ヤルダバオートという名称そのものが、ヤーヴェを呪われたる偽りの神として貶めるための造語である。『この世の起源について』はその語義を「若者よ、渡ってきなさい」の意であると説明する。この説明はおそらく、シリア語で「ヤルダー」が「若者」、「ベオート」が「渡れ(命令形)」の意であることに基づくものと思われる。しかし同時に、同じ『この世の起源について』では、ヤルダバオートを「奈落(カオス)」を母とする子として説明している。シリア語で「奈落」あるいは「混沌」は「バフート」であるから、ヤルダバオートは「奈落を母とする若者」の意になり、この合成語の意味を早くから「混沌の子」と説明してきた古典的な学説と一致することになる。さらに、アラム語で「――を生む者」の意の「ヤレド」に目的語として「サバオート」がついた形と見做して、「サバオートを生む者」の意とする説もあり、特定できない。

 

グノーシス用語辞典(ま行)

グノーシス用語辞典

見えざる霊
 「処女なる霊」と一組で用いられて至高神を指す場合が多い。

モノゲネース
 ギリシャ語で「独り子」の意。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派グノーシス主義の教説においては、至高神(ビュトスあるいはプロパトール)とその女性的「対」(エンノイアあるいはシゲー)から生まれ、キリストと精霊を流出する存在。『ヨハネのアポクリュフォン』では、アウトゲネース、すなわちキリストと同定される。

模倣の霊/忌むべき霊
 ギリシャ語「アンティミーモン プネウマ」の訳。『ヨハネのアポクリュフォン』において集中的に言及される。特にその歴史的起源を補論の形で論じる箇所によれば、プレーローマから派遣された「光のエピノイア」を見た悪の天使たちが、それに似せて造り出し、人間の娘たちを誘惑して子供を産ませる力とされている。

 

グノーシス用語辞典(は行)

グノーシス用語辞典

場所
 グノーシス主義の神話では「あの場所」、「この場所」というような表現で超越的な光の世界と地上世界を指し、「中間の場所」でその中間に広がる領域を表現することが多い。『三部の教え』では、否定神学の意味で、神は「場所」の中にいないといわれ、万物の父(至高神)がアイオーンたちにとって「場所」である(『真理の福音』では、父は自らの内にあるすべての「場所」を知っている)と言われる。さらに同書では、ロゴスの過失によって生み出された造物主が、彼の創造物にとって「場所」であると言う。これらの場合の「場所」は一つの述語として用いられており、その背後には原理としての「質料」を「場所」と定義した中期プラトン主義(アルキノス『プラトン哲学要綱』)などの影響が考えられるかもしれない。『トマスによる福音書』では「光」あるいは「王国」と同意。

パトス
 熱情あるいは受難を意味するギリシャ語。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、ソフィアがその本来の男性的伴侶であるテレートスとの抱擁なしに陥った、父(至高神)を知ろうとする熱情のことで、エンテュメーシス(意図)とともにホロス(境界)の外へ疎外される。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、エローヒームによって地上に取り戻された半処女、「母」エデンがエローヒームに欲情する熱情。

バルベーロー/バルベーロン
 いくつかのグノーシス主義救済神話において、至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在。『ヨハネのアポクリュフォン』では「プロノイア」、「第一の人間」、「万物の母体」、「母父」とも呼ばれ、神話の隠れた主人公の一人であり、最後に自己自身を啓示する。『三体のプローテンノイア』では、プローテンノイアの別名で登場する。エイレナイオスの『異端反駁』は、『ヨハネのアポクリュフォン』のバルベーローに関する記述に相当する部分を要約的に報告して、それを「バルベーロー派」の神話だという。しかしそのバルベーロー派と目されるグノーシス主義の歴史的実態については、やはりエイレナイオスによって報告されるセツ派などの他のグノーシス主義グループの場合と同様、詳細は不明である。「バルベーロー」の語源・語義については、伝統的にヘブル語で「四つの中に神在り」の意の文を固有名詞化したものだとされてきた(この場合、「四」とはプレーローマの最上位に位置する四個組の高次アイオーン、すなわちテトラクテュスを指す)。しかし最近では、コプト語ないしそれ以前のエジプト語で「発出」を意味する「ベルビル」と「大いなる」の意の「オー」とから成る合成語で、「大いなる発出」の意味だとする仮説が唱えられている。

範型
 シリア・エジプト型のグノーシス主義の神話では、基本的にプラトン主義のイデア論に準じて、「上にあるもの」の写し(コピー)として「下のもの」が生成すると考えられている。その場合、「下のもの」が「像」、「影像」、「模像」、「似像」、「模写」と呼ばれるのに対し、「上のもの」が「範型」と呼ばれる。『ヨハネのアポクリュフォン』では、無知蒙昧なる造物主ヤルダバオートがソフィアから抜き取った「不朽の型(=範型)」に倣ってこの世の宇宙万物を「像」として生み出したと説明されている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、プレーローマのキリストがホロス(別名スタウロス=「十字架」)に体を広げて、アカモートの過失を止めた事件が、歴史上のイエスの十字架刑の範型とされている。「範型」と「模像」を対句で用いるのは『フィリポによる福音書』である。

万物
 グノーシス主義神話の述語としては、中間界および物質界と区別された超越的な光の世界プレーローマの同義語として使われる場合が多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、ギリシャ語の全称の形容詞を名詞化した「パンタ」という表記で言及される。ナグ・ハマディ文書の多くは、コプト語の全称の形容詞“têr”(=「すべての」、「全体の」)に男性単数の定冠詞と所有語尾を付して名詞化した形(“ptêrif”)で用い、さまざまな神的アイオーンから成るプレーローマを集合的に表現する。集合的単数の性格は、特に『アルコーンの本質』の万物が並行する『この世の起源について』では、「不死なるものたち(諸至高霊たるアイオーンたち)」と言い換えられていること、また『エジプト人の福音書』が「すべての(“têrif”)」という形容詞をプレーローマに付して、その全体性を表現していることによく現れている。ただし、『三部の教え』では、同じ集合的単数(“ptêrif”)は、すべてのアイオーンを包括する「父(至高神)」の全体性を現す。プレーローマの個々のアイオーンはその単数形をさらに複数形にして(“niptêrif”=いわば「万物たち」)表現される。例外的な用例としては、プレーローマのみならず、下方の領域までの総体を包括的に指す場合、あるいは逆に限定的に、プレーローマ界より下の領域を指す場合がある。

万物の父
 グノーシス主義における至高神(第一の人間)の別称。『ヨハネのアポクリュフォン』、『三部の教え』などでは、表現しえない至高神を何とか表現しようとして、延々と否定形で記述するという形で、至高神について語っている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では「生まれざる父」、ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では三重の「子性」の父として「存在しない神」とも呼ばれる。ただし、ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、例外的に至高神より下位の存在。すなわち「生まれた万物の父」であるエローヒームと同定される。

光り輝くもの/フォーステール
 ギリシャ語フォーステールの訳。『ヨハネのアポクリュフォン』では、プレーローマの内部でアウトゲネース(キリスト)から生成する四つの大いなる光のことで、それぞれ三つずつのアイオーンを従えている。『アダムの黙示録』では、セツの子孫たるグノーシス主義者を指す。同書では大いなるアイオーンから認識をもたらす啓示者を指す。その啓示者たちの名前はイェッセウス、マザレウス、イェッセデケウスである。なお、この名称は、『フィリポに送ったペテロの手紙』ではイエスに、『ヤコブの黙示録Ⅱ』ではヤコブに帰されている。

左のもの/右のもの/左手/右手
 「右のもの」が積極的な意味で用いられるのに対して、「左のもの」は常に否定的な意味で用いられる。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、「左のもの」はソフィアのパトスから派生した物質を指し、「右のもの」、つまり心魂的なものと対照されている。『アルコーン本質』では、改心したサバオートとその右手のゾーエーが積極的に評価されることとの対照で、左手は専横、あるいは邪悪を意味する。『この世の起源について』では、ヤルダバオートがもらい受けるピスティス・ソフィアの左の場所は「不義」と呼ばれ、右が「正義」と呼ばれることと対照されている。『フィリポによる福音書』では、右は「善きもの」、左は「悪しきもの」とされ、十字架が「右のもの、左のもの」と呼ばれる。『三部の教え』では「左の者たち」=物質的種族が負の存在として、「右の者たち」=心魂的種族と対照されている。『真理の福音』では、99までは左手で数えられ、1を欠くので欠乏を、99に1を足して100からは右手で数えられるので、右は完全を表す。

復活
 本質的には人間が本来的自己を覚知することを意味する。したがって、時間的な側面では、新約聖書の復活観とは対照的に、死後の出来事ではなく、死より前、生きている間に起きるべきこととなる。場所的な側面では、この世あるいは「中間の場所」から本来の在り処であるプレーローマへ回帰することが、人間の肉体的な死であると同時に、霊的な復活を意味する。『復活に関する教え』はこの二つの意味での「霊的復活」について語る。復活に関しては『フィリポによる福音書』、『復活に関する教え』、『魂の解明』、『真理の証言』、『シェームの釈義』などに詳しい記述がある。子宮とも密接に関連しているが、復活の概念はグノーシス主義の死生観において逆説的な表現が入り乱れるキータームである。
グノーシス主義の死生観(詳細説明執筆中)

物質/質料
 ギリシャ語「ヒューレー(hylê)」の訳語。この同じギリシャ語を中期プラトン主義は「神」、「イデア」と並ぶ三原理に一つ、「質料」の意味で用いるが、グノーシス主義は肉、肉体、あるいは泥などとほぼ同義の否定的な意味合いで用いることが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、アカモートの陥った情念から派生する。『ヨハネのアポクリュフォン』、『真理の福音』では、初めから存在が前提されているもの、つまり一つの原理として、いささか唐突に言及される。反対に『この世の起源について』では、「垂れ幕」の陰から二次的に生成し、カオスの中へ投げ捨てられて、やがてヤルダバオートの世界創造の素材となる。『アルコーンの本質』でも、上なる天と下の領域を区切るカーテンの陰から生成し、やがてピスティス・ソフィアの流産の子サマエールを生み出す。同書では「闇」あるいは「混沌(カオス)」と同義である。

プレーローマ
 ギリシャ語で「充満」の意。至高神以下の諸至高霊アイオーンによって満たされた超越的光の世界を表現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語である。しかし必ずしもどの文書にもこの述語が現れるというわけではない。たとえばヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデスの教説では、プレーローマの代わりに「超世界」、『アルコーンの本質』と『この世の起源について』ではオグドアス、あるいは「八つのもの」という表現が用いられている。この語が複数形で用いられ、「父のすべての流出」を指す場合もある。
 なお、分析心理学者C.G.ユングは、『死者への七つの語らい』でプレーローマ(邦訳ではプレロマと表記されている)を、形も音もなく、無であり空であるが、すべての対立する特性で充溢されているという、「原初空虚=充満空虚」だと説明している。その上でユングは、アブラクサスについて、神と悪魔の上に立つ至高者として、また不可知的超越世界の空無の特性をそのまま具現化した「不可能な存在」として語っている。
アブラクサスの伝説(執筆中)

プロノイア
 ギリシャ語で「摂理」の意。ストア哲学では宿命(ヘイマルメネー)と同一で、神的原理であるロゴスが宇宙万物の中に偏在しながら、あらゆる事象を究極的には全体の益になるように予定し、実現していくことを言う。あるいは中期プラトン主義(偽プルータルコス「宿命について」)においては、恒星天ではプロノイアが宿命に勝り、惑星天では均衡し、月下界では宿命がプロノイアに勝るという関係で考えられる。グノーシス主義はストアにおけるプロノイアと宿命の同一性を破棄して、基本的に宿命を悪の原理、プロノイアを至高神に次ぐ位置にある救済の原理へ二分割するが、文書ごとに微妙な差が認められる。『ヨハネのアポクリュフォン』はプレーローマ界に二つのプロノイア、中間界にもう一つのプロノイア、地上界に宿命を配置するが、『この世の起源について』はプレーローマ、中間界、地上界のそれぞれに一つずつプロノイアを割り振り、中間界と地上界のそれについては宿命と同一視している。『エジプト人の福音書』でもそれはみられるが、「大いなる見えざる霊(父・至高神)」との関係、あるいはその他の点での神話論的な位置づけが明瞭に読み取れない。

ヘプドマス/七つのもの
 ギリシャ語で「七番目のもの」あるいは「七つのもの」の意。グノーシス主義神話では造物主デミウルゴスとその居場所を指すことが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、オグドアス(八つのもの)と呼ばれる母アカモートの下位にいるデミウルゴスのこと。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデス派の教説では、オグドアスにおける「大いなるアルコーン」とその子アブラクサスの下位に位置する神「別のアルコーン(旧約聖書の神ヤハウェに相当)」とその息子の住処とされている。『ヨハネのアポクリュフォン』では一週七日(「週の七個組」)の意。『この世の起源について』では、本文が欠損していて確定しにくいが、おそらく第一のアルコーンの女性名である。『エジプト人の福音書』ではプレーローマ内の存在の何らかの組み合わせを指すが、詳細は不詳である。

母父/メートロバトール
 ギリシャ語「メートロバトール」の訳。このギリシャ語は通常は母方の祖父の意味であるが、『ヨハネのアポクリュフォン』の特に長写本は両性具有の存在バルベーローを指して用いている。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、造物主デミウルゴスの別名である。

 

グノーシス用語辞典(な行)

グノーシス用語辞典

七人
 ヘレニズム時代に一般的に七つの領域と見做されていた月、太陽、金星、水星、火星、木星土星が神話論的に擬人化されたもので、中間界以下の領域の悪しき支配者(アルコーン)。ギリシャ語魔術文書や広範なグノーシス主義文書に、それぞれ隠語化された名前で登場する。『ヨハネのアポクリュフォン』に列挙される名前は、黄道十二宮を同様に擬人化した「十二人」と一部重複するが、七という数字は、一週間の日数として説明される。同時に、七人のそれぞれが男性性と女性性の「対」関係が置かれる。『この世の起源について』では、ヤルダバオートを含めて総称的に「アルコーンたち(アルコンテス)」、「支配者たち」、「権威たち」と呼ばれ、カオスから男女(おめ)として出現する。ナグ・ハマディ文書以外では、マンダ教文書にまったく独自のマンダ語の名前で頻繁に登場する。エイレナイオス『異端反駁』のセツ派についての報告、オリゲネスの『ケルソス駁論』、エピファニオスの『薬籠』のフィビオン派についての報告などにもさまざまな名前で登場する。七つの惑星の述べ方の順番(特に太陽の位置)については、ストアや中期プラトニズムなどの学派哲学の宇宙論においてさえ諸説があったため、グノーシス主義文書に隠語で言及される「七人」が、それぞれどの惑星に対応するかは一概に決められない。

肉/肉体/肉的
 宇宙と人間を、霊的なもの、心魂的なもの、肉的(物質的)なものの三分法で考えるグノーシス主義の世界観における最下位の原理で、「物質」あるいは「泥」と同義であることが多いが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説に見られるように、泥から由来する身体と区別して、四分法的に語られることがある。『フィリポによる福音書』は一方で肉体の無価値性を断言するが、他方で「肉にあって甦ることが必要である」とする。『復活に関する教え』は置いた肉体を胞衣(えな)に譬える。

ノーレア
 『アルコーンの本質』では、アダムとエバがセツを産んだ後にもうけた娘で、理屈ではセツの妹であると同時に妻であるという近親婚的関係にあることになる。しかし、同書ではむしろノアの妻であることが前提されていると思われる。この二系統の表象はその他のグノーシス主義文書の間にも認められる。エイレナイオス『異端反駁』とエピファニオス『薬籠』に報告されているセツ派は前者であり、また同書のエピファニオスによって報告されている『ニコライ派』とマンダ教は後者に属する。特に後者の表象系統では、ノーレアは夫のノアがこの世の支配者であるアルコーンに仕えたのに対して、超越的な神バルベーローに仕える存在であり、ノアが造った方舟に立ち入りを拒まれると、三度までもそれを焼き払ったという。ヘレニズム期のユダヤ教のハガダー(物語)伝承にも、ナアマという女性が一方ではセツの妹かつ妻として、他方ではノアの妻として言及される。ノーレアという名前は、基本的にはそのナアマがギリシャ語化したものとする説が有力である。ナグ・ハマディ文書の中では『ノーレアの思想』と『この世の起源について』に言及がある。

 

グノーシス用語辞典(た行)

グノーシス用語辞典

第一の人間/完全なる人間/真実なる人間/人間
 超越的世界プレーローマの至高神のこと。必ずしもすべての神話が至高神にこの呼称を与えているわけではないが、「人間即神也」というグノーシス主義一般に共通根本的思想をもっとも端的に表現するもの。至高神はこの他に「人間」、「不死なる光の父」、「存在しない神」、「万物の父」、「不朽なるもの」、「生まれざる方」、「生まれざる父」、「始まりも終わりもないもの」、「原父(プロパトール)」、「深淵(ビュトス)」などといった多様な呼称で呼ばれている。『ヨハネのアポクリュフォン』では、至高神と同時にバルベーローも「第一の人間」と呼ばれる。
 「完全なる人間」は終末に到来が待望される救済者、すでに到来したキリスト、あるいは人類の中の「霊的種族」の意味で使われることもある。同様に「真実なる人間」も、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説において、例外的に、至高神より下位のアイオーンの「オグドアス」の一つを指す。同書では「人間(アントローポス)」は至高神ではなく、より下位の神的存在(アイオーン)の一つ。

中間の場所
 ヴァレンティノス派グノーシス主義に特有な神話素で、大きくは超越的プレーローマ界と物質界の中間の領域を指す。より正確には、アカモートが終末までの間一時的に置かれる場所で、中間界以下を創造する造物主デミウルゴスの上に位置する。同書では心魂的な人間たちが終末において到達する場所。なお、『フィリポによる福音書』では例外的に忌むべき「死」の場所であり、滅亡の場所の意である。『シェームの釈義』では、巨大な女性器として見られた宇宙の中で「処女膜の霊」と「胞衣の霊」の下に位置する領域を指し、啓示者デルデケアスによるヌースの回収作業によって闇から清められる。

「対」
 ギリシャ語「シュジュギア」の訳。プレーローマの至高神が自己思惟の主体と客体に分化して、さまざまな高次の神的存在であるアイオーンを流出する。それと共に原初的な両性具有(男女=おめ)の在り方も男性性と女性性に分化し、男性アイオーンと女性アイオーンが一つずつ組み合わされて「対」を構成する。ヴァレンティノス派の場合には、ビュトス(深淵)とエンノイア(思考)、ヌース(叡智)とアレーテイア(真理)、ロゴス(ことば)とゾーエー(生命)、アントローポス(人間)とエクレーシア(教会)のように、ギリシャ語の男性名詞と女性名詞を巧妙に組み合わせて「対」関係を表現している。『ヨハネのアポクリュフォン』の場合も元来のギリシャ語原本では同様の消息であったと考えられるが、現存のコプト語の同義語へ翻訳した結果、文法的な性が変わってしまったために、ギリシャ語原本の神話論的巧妙さは失われている。
 『ヨハネのアポクリュフォン』は、ヤルダバオート配下の七人のアルコーン(男性)にもそれぞれ女性的「勢力」を割り振って「対」関係を造り上げているが、『この世の起源について』ではヤルダバオート以下、「十二人」、「七人」、も含めて、諸々の悪霊まで両性具有の存在と考えられている。

つくり物/こしらえ物/形成物
 ギリシャ語「プラスマ」の訳。例外的に積極的な意味で用いられることもあるが、大抵の場合はアルコンテスが造り出す心魂的人間、あるいは肉体の牢獄という否定的な意味で用いられる。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、「母」である半処女エデンが造り出したこの世のことである。

テトラクテュス
 ピュタゴラス学派では最初の四つの整数の和で「10」のことを指すが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説においては、超越的世界プレーローマの最も深部にある高次のアイオーンであるビュトス(深淵)、エンノイア(思考)、ヌース(叡智)、アレーテイア(真理)の四個組を指していう。

デミウルゴス [ギ]dēmiūrgos
 デミウルゴス(デーミウールゴス)はギリシャ語で「製作者」「構築者」の意。グノーシス主義においてはアルキゲネドール、パントクラトールとも呼ばれる。元来はプラトン哲学で語られる善なる造物主・創造神を指していう。プラトン哲学では、この善なるものとしてのデミウルゴスが、原型イデアに則って素材から宇宙を生成し、善きものとしての秩序を形成したとして神聖視されている(『ティマイオス』に詳しい)が、グノーシス主義においては打って変わって「呪われた偽りの神」として扱われており、真に善きなるものとしての至高神とは明確に区別されたうえ、その被造としての宇宙、そして秩序は転じて倒錯的なものであり、カオスだと貶められることになった。すなわちデミウルゴスは、カオスとしての宇宙を支配する征服者として扱われ、悪霊群の首領と位置づけられたのである。多くのグノーシス主義神話では、このデミウルゴスの位置づけに旧約聖書の神ヤーヴェを当てはめ、ヤルダバオート(無知蒙昧なる神)、サマエール(盲目の神)、サクラス(馬鹿な神)などといったように、明らかにそれを冒涜し、徹底的に貶める意味が含まれている語で表現する。
デミウルゴス詳細説明(執筆中)
→サクラス、サマエール(サ行)
→ヤルダバオート(ヤ行)

デュナミス/ホロス
 ギリシャ語「デュナミス」は、グノーシス主義においては通常「諸力」の意味で否定的に用いられるが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では例外的に、超越的世界プレーローマ内のアイオーンの一つで、ソフィアの過失を最小限にくい止める境界(=ホロス、カーテン)の役割を果たす。なお、護符に描かれるアブラクサスの左手に握られている鞭はデュナミス(力)を象徴するものである。

塗油
 元来は原始キリスト教において、洗礼の儀式との関連で行われた儀礼。洗礼は罪の赦しと同時に精霊を授与・受領する儀式とも理解されたので、その精霊が洗われないよう、受洗者を油で封印するために行われた象徴行為であると思われるが、洗礼と塗油の前後関係についてはよくわかっていない。その後も紀元後3-4世紀まで東方教会西方教会ではその順番付けが異なっていた。グノーシス主義の文書では、『フィリポによる福音書』が洗礼、聖餐、救済、新婦の部屋と並ぶ儀礼として繰り返し言及する。特に洗礼との関連が密接であるが、同時に洗礼よりも塗油の方が重要であることが強調される。「クリスチャン」の呼称は、本来の「キリストに属する者」という意味ではなく、「油を注がれた者」、すなわちグノーシス主義者を指すものに転義している。それどころか、塗油を受けたグノーシス主義者は一人一人が「キリスト」になるとされているのである。神話上の場面としては、『ヨハネのアポクリュフォン』で「独り子(またはアウトゲネース)」が至高神から「至善さ」によって塗油されて「キリスト」となる。ここでは、一方で「至善な」がギリシャ語では「クレーストス」、他方で「キリスト」が元来「塗油された者」の意で、ギリシャ語では「クリストス」であることを踏まえた語呂合わせが行われている。

泥/泥的
 宇宙と人間を霊、心魂、物質(肉体)にわけて捉えるグノーシス主義の三分法的世界観において、価値的に最下位のもので、物質と同義。貶下的な意味での「悪しき霊魂(ゼーレ)ども」という呼称も同義である。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、造物主が物質(質料)の内の液状のものから造り、心魂的なものへ注入する。これは、至高神あるいは超越的世界プレーローマとは一切無縁の非神的要素である。そのため終末にあっては、最終的な救いに与ることができず、「世界大火」によって焼き尽くされる運命にある。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、イエスの十字架刑において心魂的部分と共に受難する部分として、受難を免れる霊的部分と区別されている。同書には泥的人間、心魂的人間、霊的人間の三分法が見られる。

 

グノーシス用語辞典(さ行)

グノーシス用語辞典

サクラス/サクラ
 主にヤルダバオート、サマエール、あるいはパントクラトール(万物の支配者)の名で呼ばれる造物主デミウルゴスと同じ。語源はアラム語ないしシリア語で、「馬鹿な」を意味する。

サバオート
 旧約聖書における「万軍の主なる神」という表現の、「万軍の」に該当するヘブル語を、神話論的に擬人化したもの。『アルコーンの本質』では、ヤルダバオートの息子であるが、父の愚かさを謗って離反し、ピスティス・ソフィアとその娘ゾーエーを賛美して、第七天へ移される。ゾーエーと「対」を構成する。『この世の起源について』でもほぼ同じ関係になっている。

サマエール
 サクラスあるいはヤルダバオートの別名。その語義は「盲目の神」。一説によれば、この語義説明はシリア語で「盲目な」を意味する形容詞“samyâ”との語呂合わせに基づいている。

子宮
 グノーシス主義救済神話の重要な象徴語の一つであり、積極的、中立的、否定的の三つの意味合いで用いられる。積極的な意味では、万物の「母胎」としての至高神、あるいはそれに準ずる両性具有の神的存在を指す。また、人間の胎児の宿る場所を指す。否定的には、男女の性行為によって、増殖・存続する現実世界の全体を指す。

十二人
 天の黄道十二宮(獣帯)を神話論的に擬人化したもので、『ヨハネのアポクリュフォン』と『エジプト人の福音書』では、造物主(ヤルダバオート)の配下としてその名前が列挙されている。『この世の起源について』では名前を挙げられるのは六人であるが、それぞれ両性具有であるために十二人とも呼ばれる。ただし、その六人の名前は『ヨハネのアポクリュフォン』や『エジプト人の福音書』のそれとは一部異なっている。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告による『バルクの書』では、「父エローヒーム」と「母エデン」がそれぞれ自分のために生む天子の数である。

終末
 プレーローマの中に生じた過失の結果として、物質的世界の中に散らされた神的本質(霊・光・力)が再び回収されてプレーローマに回帰し、その欠乏状態が回復されて、万物の安息が取り戻されること。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるヴァレンティノス派グノーシス主義によれば、その際、霊的なものはプレーローマに入るが、心魂的なもの「中間の場所」に移動し、残された物質的世界は、「世界大火」によって焼き尽くされる。『この世の起源について』では同様の終末論を黙示文学的な表象で描いている。また、宇宙万物の終末について論じるこのような普遍的終末論とは別に、個々人の死後の魂(霊)の運命について思弁をめぐらす個人主義的終末論があり、ティグリス・ユーフラティス河の下流域に現存するマンダ教などを含めて、グノーシス主義全体についてみれば、頻度的には後者のほうが多い。『真理の福音』では「終わりとは隠されていることの知識を受けること」とされている。

種子
 グノーシス主義の神話でもっとも頻繁に現れる述語の一つで、多様な意味で用いられる。一つは潜在的可能性の比喩として用いられる場合で、たとえば『真理の福音』で、人間を起こす「真理の光」は「父の種子」に満たされている。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説においては、世界の種子(=汎種子混合体、パンスペルミア)は三重の「子性」と世界万物を潜在的に包含する。エイレナイオス『異端反駁』の報告による、ヴァレンティノス派グノーシス主義の教説によれば、アカモートが造物主の中に密かに導く霊的存在のことで、しかるべき時まで成長を続ける。『三部の教え』でも「イエス・キリストの約束の種子」などのほか、潜在的可能性の意味での用例が多い。「一部」あるいは「肢体」もこの意に近い。今一つは「子孫」の意味の用例で、『ヨハネのアポクリュフォン』における「セツの子孫」、『フィリポによる福音書』の「人の子の種子」などがある。『アルコーンの本質』の「あの種子」(=単数)はさらに別の用例で、終末論的救済者を意味している。最後に、『この世の起源について』では、権威、天使、悪霊たちの精液のこと。

処女なる霊
 多くの場合「見えざる霊」と一組に用いられて、プレーローマの至高神を指す。ただし例外的にヤルダバオートの部下のそれぞれの所有物を指して言うことがある。

諸力
 ギリシャ語「デュナミス」の訳語。多くの場合「アルコーンたち(アルコンテス)」「権威たち」と同義語であるが、男性的なアルコンテスに女性的属性として組み合わされて、「対」関係を構成することがある。

心魂/心魂的/生魂/生魂的/魂
 グノーシス主義は人間(ミクロコスモス)を霊、心魂、肉体(物質)の三つから成ると見るのに対応して、宇宙(マクロコスモス)も超越的プレーローマ、中間界、物質界の三層に分けて考える。「心魂」はその場合の中間の原理。多くの文書で繰り返し「霊的なるもの」と対比される。その起源を神話論的に最も立ち入って、説明するのはヴァレンティノス派である。エイレナイオス『異端反駁』の報告によれば、アカモート(下のソフィア)の立ち帰りから導出され、「右のもの」とも呼ばれる。また、同書によれば、「善い行ない」によってのみ「中間の場所」へ救われる者たちを指す。『三部の教え』によれば、アカモートではなく、ロゴスが過失を犯し、その「立ち帰り」から導出される。ただし、魂と肉体の二分法に立つ文書もあり、たとえば『魂の解明』での「魂」は、三分法で言うところの「霊」と同じである。

身体
 『ヨハネのアポクリュフォン』や『この世の起源について』では「七人」のアルコーンたちによって造られる「心魂的人間」をさす。この人間は肉体を着せられる以前の人間であるから、「身体」は肉体性と同義ではなく、むしろ個体性の意味に近い。グノーシス主義否定神学は至高神がこの意味での「身体性」をも持たないことを強調する。ただし、『真理の福音』では、「彼(父)の愛がそれ(言葉)の中で体となり」と言われる。

新婦の部屋/婚礼の部屋
 ヴァレンティノス派に特有の神話論的表象および儀礼。エイレナイオス『異端反駁』の報告によれば、プレーローマの内部で「キリスト」(第一のキリスト)と精霊、アカモートとソーテール(=救い主、プレーローマの星、第二のキリスト、イエスに同じ)がそれぞれ「対」関係を構成するのに倣って、地上の霊的な者たちも、やがて来るべき終末において、ソーテールの従者たる天使たち(花婿)に花嫁として結ばれる。ヴァレンティノス派はこの結婚を「新婦の部屋」と呼び、その地上的な「模像」として一つの儀礼(サクラメント)行為を実践した。その具体的な中身について、エイレナイオスやヒッポリュトスを含む反異端論者の側ではいかがわしい推測も行われたが、最近の歴史的・批判的研究では「聖なる接吻」説と「臨終儀礼」説が有力である。ナグ・ハマディ文書のなかでは、『フィリポによる福音書』がもっとも頻繁に言及する。

世界
 目に見える現実の宇宙的世界のこと。プラトン主義では「最良の制作物」(アルキノス『プラトン哲学要綱』)と見做されたのと対照的に、グノーシス主義では、自らが不完全な「流産の子」である造物主(ヤルダバオート)が造り上げた不完全な「つくり物」として、超越的なプレーローマから価値的に厳しく区分される。たとえば、『復活に関する教え』によれば、この世界は一つの幻影であり、そこからの「復活」が救いである。ただし、この区分はグノーシス主義の展開と共に融和される方へと進み、「つくり物」の世界の形成にも、プレーローマの意志が隠れた形で働いていたとされるに至る。オイコノミア(経論)と表現されることもある。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説においては例外的に、まず「世界の種子(汎種子混合体、パンスペルミア)」について語り、その後でその「世界」を、「存在しない神」の超越的世界と下方の可能的世界に分割し、後者をさらに「オグドアス(大いなるアルコーンとアブラクサスの領域)」、「ヘプドマス(別のアルコーン=旧約の神の領域)」「ディアステーマ(僻地)」に三区分している。

セツ/セツの子孫
 セツは、旧約聖書『創世記』に登場するセツ(セト)のことである。このセツに、神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫であると見做したグノーシス主義グループがいたことはエイレナイオス、ヒッポリュトス、エピファニオスら、異端反駁論者の報告書から知られている。しかし、この三者の報告に食い違いが大きく、統一的なイメージに収斂しないため、いわゆる「セツ派」と呼ばれるグノーシス主義の歴史的実態は不明である。ナグ・ハマディ文書の中にも、『ヨハネのアポクリュフォン』、『エジプト人の福音書』、『アダムの黙示録(全体がアダムからセツへの掲示)』を初めとして、『アルコーンの本質』、『セツの三つの柱』、『ゾストゥリアヌス』、『メルキセデク』、『ノーレアの思想』、『マルサネース』、『アロゲネース』などがセツ派のものではないかと考えられている。なお、セツ(Seth)は、エジプト古来の神で、オシリス神話にも悪神として登場するセト神と同じ綴りであることもあって、ある時期以降、両者の混淆が起きている。

洗礼
 ナグ・ハマディ文書の中には洗礼について言及するものが少なくない。特に『三部の教え』では、「唯一の洗礼」「それを二度と脱ぐことのない者たちのための衣服」などの種々な呼称を紹介するほか、ヴァレンティノス派の洗礼に関する詳細な議論を繰り広げる。『この世の起源について』は、霊の洗礼、火の洗礼、水の洗礼という三種類の洗礼について語っている。『三体のプローテンノイア』では、女性的啓示者であるプローテンノイアが、覚知者を天使に委ねて洗礼を受ける。『アダムの黙示録』では、13の王国が終末論的救済者の起源について、それぞれ意見を開陳する結びのところで、「こうして彼は水の上にやってきた」という定型句が繰り返される。いずれの背後にもグノーシス主義的な意味づけを伴った洗礼の儀式が前提されている可能性が大きい。特に『フィリポによる福音書』では間違いなくそうである。同書では塗油の儀礼と密接に関連付けられ、価値的にはその下位に置かれている。『エジプト人の福音書』においても洗礼儀式が重要な役割を演じている。『真理の証言』と『シェームの釈義』は、水による洗礼を「汚れた」ものとして拒否する。

像/影像/似像/模像/模写
 『グノーシスの宗教』の著者で知られるハンス・ヨナスが提唱した、グノーシス主義救済神話の類型区分でいうところの、「シリア・エジプト型」の神話は、プレーローマの至高神から地上の肉体という牢獄に閉じ込められた人間まで、上から下へ垂直的に展開される。その展開を支える根本的な思考法は、「上にあるもの」が「範型(≒イデア)」となり、「下のもの」がその「像」(eikôn)として造り出されるというもので、基本的にプラトン主義の考え方に準じている。したがって、この「範型」と「像」という関係は神話のさまざまな段階において、大小さまざまな規模で繰り返される。
(1)バルベーローは至高神の似像(→『ヨハネのアポクリュフォン』)
(2)「第一の天(プレーローマ)」から下へ、上天が下天の範型となって、最下位の天まで365の天が生じる(→エイレナイオス『異端反駁』報告におけるバシレイデス派の教説)
(3)造物主(ヤルダバオート)は上なる「不朽の範型」を知らずに(→『ヨハネのアポクリュフォン』)、あるいはそれを見ながら(→『三部の教え』『この世の起源について』)、中間界以下を創造する。
(4)アルコーンたちは至高神の像を見ながら、その似像として心魂的あるいは泥的人間を創造する(→エイレナイオス『異端反駁』報告におけるヴァレンティノス派教説、『アルコーンの本質』)。
(5)エバはアダムの似像(→『アルコーンの本質』)であると同時に、
(6)プレーローマから派遣される「真実のエバ」の模像。
 その他、特に『フィリポによる福音書』では、「新婦の部屋」などの儀礼行為もプレーローマにある本体の模像とされる。
 また『トマスによる福音書』では、以下の三つの実体が区別されている。
(1)霊的「像(エイコーン)」
(2)地上の「像(エイコーンの複数)」
(3)「外見」または「似像(エイネ)」
(1)と(3)は、創世記の「像(ホイコーン)」と「似像(ホモイオーシス、そのコプト語訳がエイネ)」にあたる。(2)は(1)の地上における顕現形態で、(3)は(2)の反映かと考えられている。

ソフィア/ピスティス・ソフィア
 ギリシャ語で「智慧」の意。ヘブル語の「智慧」あるいは「智慧の女神」を意味する「ホクマー」を転用する形で用いられることがある。グノーシス主義救済神話では擬人化され、たいていもっとも重要視される女性アイオーンである。「シリア・エジプト型」のグノーシス主義救済神話においては擬人化されて、プレーローマの最下位に位置している。男性的「対」の同意なしに「認識」の欲求に捕らわれ、それを実現しようとしたことが過失となり、プレーローマの安息が失われ、その内部に「欠乏」が生じ、それがやがて出来損ないの息子である造物主デミウルゴスを生み出すことになり、中間界以下の領域生成につながっていくことになる。グノーシス主義は「認識」が救済にとって決定的に重要であることを強調する一方で、同時に認識欲の危険性を知っており、神話においてはソフィアの過失をその教示として示している。ヴァレンティノス派では「上のソフィア」、「下のソフィア」、「小さなソフィア」、あるいは「死のソフィア」、「塩(不妊)のソフィア」など、さまざまなレベルのソフィアが登場する。
 『アルコーンの本質』と『この世の起源について』では、「ピスティス・ソフィア(=ギリシャ語で「信仰・智慧」の意)」という名称で登場し、ヤルダバオートと「七人」を生み出し、アルコーンたちによる心魂的人間の創造をも陰で仕組むなど、陰に陽に神話全体の主役として描き出されている。さらに『この世の起源について』ではヤルダバオートの娘にもこの名が与えられており、「七人」の一人アスタファイオスの女性的側面を構成する存在もソフィアと呼ばれている。なお、護符に描かれるアブラクサスの右手に武装されている盾は、ソフィア(智慧)を象徴するものである。

ソフィア・ゾーエー
 ゾーエーとはギリシャ語で「生命」の意。新約聖書が「永遠の生命」という時と同じ単語である。グノーシス主義の神話では擬人化されて、終末論の文脈で働く女性的救済者の一人。「ソフィア・ゾーエー」とも、単に「ゾーエー」とも表記される。『ヨハネのアポクリュフォン』では「光のエピノイア」と同じ。『アルコーンの本質』ではピスティス・ソフィアの娘である。『この世の起源について』でも同様であり、サバオートに「オグドアス」の中の存在について教え、心魂的アダムを創造し、地的アダムを起き上がらせる。

 

グノーシス用語辞典(か行)

グノーシス用語辞典

カオス/混沌 [ギ]kaos [英]chaos
 しばしば「混沌」と訳されるが、原義は「原初にできた裂け目」。ギリシア神話を詳解しているヘシオドスの『神統記』によると、世界の淵源はカオスであり、そのカオスが生じた後にガイア(大地)やタルタロス(奈落)などが生じたとされる。しかしながら、ここで言われているカオスは現在理解されているような未分化で実体的な混沌というものではなく、原義の通り大口を開けたかの如くの「裂け目」であり、無実体の「空隙」のようなものであるということに留意する必要がある。グノーシス主義神話におけるカオスは、前者の未分化で無秩序な物質の領域をあらわすとともに光明の領域と対置されるのが常であるが、各神話における役割は統一的であるとはいえず、例えば『ヨハネのアポクリュフォン』ではその起源は説明されない。

カーテン/境界/垂れ幕/ホロス
 超越的領域である光の世界とその下方にある領域を隔てる境界の比喩的表現。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説によれば、超越的世界に帰属する「第二の子性」が、その重さゆえに独力では帰れないため、精霊の手を借りて「存在しない神」の元へと還ることになるが、精霊そのものは超越的世界に帰属するものではないため、「蒼穹」となって、超越的世界とこの世の「隔てのカーテン」としての境界となる。『この世の起源について』では、ソフィアが「垂れ幕」と同定され、その陰からカオスが派生する。『アルコーンの本質』でも「カーテン」の陰から物質が派生する。『フィリポによる福音書』では、寝室の垂れ幕とエルサレム神殿の至聖所の垂れ幕が、プレーローマと被造世界の間に引かれた境界の比喩である。
→デュナミス/ホロス

完全なる種族/完全なる者たち
 グノーシス主義者の自己呼称のひとつ。「聖霊の選ばれたる種族」「真実なる種族」「人の子の種子」「揺らぐことのない種族」「王なき種族」といった呼ばれ方も同義。

教示者
 アルコンテスによって創造された心魂的人間としてのアダムとエバの前に現れ、真の認識とはなにかを示す啓示者。『アルコーンの本質』では、蛇にのり移った霊的な女がそれにあたり、善悪の木から食べることによって神々のようになれるとエバに教示している。『この世の起源について』においては、ソフィア・ゾーエーが、アダムに送った教示者としての「生命のエバ」あるいは「真実のエバ」を指し、楽園で知識の木に変身する。同書では、創世記三章の蛇が、「動物」として言及され、生命のエバの顕現形態、あるいはその息子として教示者の役割を果たす。

グノーシス/知識/認識[ギ]gnosis[英]knowledge
 ギリシャ語で「認識」の意。おのれの内にある至高神に由来する霊的な本質(本来的自己)を認識するかどうかで、個々人の救済が果たされるか否かがかかっている、とするグノーシス主義の根幹をなすキータームであり、グノーシス主義がまさに「グノーシス主義」と呼ばれる所以である。教示者が心魂的な人間に霊的な本質を告げ知らせるという形で、その認識をうながすパターンが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるヴァレンティノス派グノーシス主義においては、過失を犯したソフィアが「存在において」形作られることが「認識に基づいて」形作られることに対照されている。同書では、後者が終末論的完成の意味で語られる。『この世の起源について』においては、「自分の認識」が「自分の本性」を明らかにする。特に『フィリポによる福音書』と『真理の福音』、および『アダムの黙示録』がかなり高頻度の割合で「認識」について言及する。このグノーシスの意味は、認識欲に駆られ、その分を超えた欲望を満たそうとすることとは次元を異にし、むしろ、それに対しては戒めの意味をも持たせていることに注意。ソフィアの至高神に対する認識欲に駆られた結果である過失は、まさにその認識についての注意点としても語られているといえる。また、ヒッポリュトス『全異端反駁』による報告の、バシレイデス派グノーシス主義の教説においては、その終末において、「存在しない神=至高神」の超越的世界から「蒼穹」によって分け隔てられている「この世」に、「存在しない神」が「大いなる無知(=無意識:agnoia)」を投げかけることで、「この世」にある超越的世界に帰属しないすべてのものが、分を超えた認識欲に二度と苦しむことがないようにするという点に、「認識」の両価性が表現されているといえる。

経綸(オイコノミア)
 ギリシア語のオイコノミアは、もともと「家」を意味するオイコスと「秩序・法律」を意味するノモスから成り立ち、字義通りに訳せば「家庭の秩序・規則を保つこと」となるが、一般的には「計画」や「行政」などという意味で使われる(因みにこのオイコノミアを英語化したものがエコノミーである)。キリスト教の正統主義教会においては、早くから世界史を神が人類の救済のために働く場所と見做す歴史神学(救済史の神学)の枠内で、「神の摂理、計画、予定」という神の働きに関して指す述語として用いられた。ナグ・ハマディ文書においては至高神と歴史の理解は、当然グノーシス主義的な解釈へと変更されているが、語義的には基本的に同じように用いられる。それは主に「空間的・場所的」という意味で、さまざまな「領域」をさしている。

欠乏
 ソフィアの過失の結果などから、プレーローマ内に生じる事態をさす。この欠乏が原因となって「つくり物」あるいは牢獄としての下方の世界と肉体が派生してゆく。従って、このプレーローマが欠乏を満たすことがグノーシス主義における万物の救済となり、個々人の救済もそのとき初めて最終的に完成される。

権威
 ギリシャ語「エクスーシアイ」の訳。『アルコーンの本質』のように、例外的にプレーローマの権威という積極的な意味で用いられることもあるが、多くの場合は「アルコンテス」あるいは「諸力」とほとんど同義語。『この世の起源について』では、カオスを支配する六人(ヤルダバオートを除く)を指し、ヤルダバオートの部下ではあるが、その愚かさをあざ笑い、心魂的人間を創造する。