読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

グノーシス用語辞典(な行)

グノーシス用語辞典

七人
 ヘレニズム時代に一般的に七つの領域と見做されていた月、太陽、金星、水星、火星、木星土星が神話論的に擬人化されたもので、中間界以下の領域の悪しき支配者(アルコーン)。ギリシャ語魔術文書や広範なグノーシス主義文書に、それぞれ隠語化された名前で登場する。『ヨハネのアポクリュフォン』に列挙される名前は、黄道十二宮を同様に擬人化した「十二人」と一部重複するが、七という数字は、一週間の日数として説明される。同時に、七人のそれぞれが男性性と女性性の「対」関係が置かれる。『この世の起源について』では、ヤルダバオートを含めて総称的に「アルコーンたち(アルコンテス)」、「支配者たち」、「権威たち」と呼ばれ、カオスから男女(おめ)として出現する。ナグ・ハマディ文書以外では、マンダ教文書にまったく独自のマンダ語の名前で頻繁に登場する。エイレナイオス『異端反駁』のセツ派についての報告、オリゲネスの『ケルソス駁論』、エピファニオスの『薬籠』のフィビオン派についての報告などにもさまざまな名前で登場する。七つの惑星の述べ方の順番(特に太陽の位置)については、ストアや中期プラトニズムなどの学派哲学の宇宙論においてさえ諸説があったため、グノーシス主義文書に隠語で言及される「七人」が、それぞれどの惑星に対応するかは一概に決められない。

肉/肉体/肉的
 宇宙と人間を、霊的なもの、心魂的なもの、肉的(物質的)なものの三分法で考えるグノーシス主義の世界観における最下位の原理で、「物質」あるいは「泥」と同義であることが多いが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説に見られるように、泥から由来する身体と区別して、四分法的に語られることがある。『フィリポによる福音書』は一方で肉体の無価値性を断言するが、他方で「肉にあって甦ることが必要である」とする。『復活に関する教え』は置いた肉体を胞衣(えな)に譬える。

ノーレア
 『アルコーンの本質』では、アダムとエバがセツを産んだ後にもうけた娘で、理屈ではセツの妹であると同時に妻であるという近親婚的関係にあることになる。しかし、同書ではむしろノアの妻であることが前提されていると思われる。この二系統の表象はその他のグノーシス主義文書の間にも認められる。エイレナイオス『異端反駁』とエピファニオス『薬籠』に報告されているセツ派は前者であり、また同書のエピファニオスによって報告されている『ニコライ派』とマンダ教は後者に属する。特に後者の表象系統では、ノーレアは夫のノアがこの世の支配者であるアルコーンに仕えたのに対して、超越的な神バルベーローに仕える存在であり、ノアが造った方舟に立ち入りを拒まれると、三度までもそれを焼き払ったという。ヘレニズム期のユダヤ教のハガダー(物語)伝承にも、ナアマという女性が一方ではセツの妹かつ妻として、他方ではノアの妻として言及される。ノーレアという名前は、基本的にはそのナアマがギリシャ語化したものとする説が有力である。ナグ・ハマディ文書の中では『ノーレアの思想』と『この世の起源について』に言及がある。

 

グノーシス用語辞典(た行)

グノーシス用語辞典

第一の人間/完全なる人間/真実なる人間/人間
 超越的世界プレーローマの至高神のこと。必ずしもすべての神話が至高神にこの呼称を与えているわけではないが、「人間即神也」というグノーシス主義一般に共通根本的思想をもっとも端的に表現するもの。至高神はこの他に「人間」、「不死なる光の父」、「存在しない神」、「万物の父」、「不朽なるもの」、「生まれざる方」、「生まれざる父」、「始まりも終わりもないもの」、「原父(プロパトール)」、「深淵(ビュトス)」などといった多様な呼称で呼ばれている。『ヨハネのアポクリュフォン』では、至高神と同時にバルベーローも「第一の人間」と呼ばれる。
 「完全なる人間」は終末に到来が待望される救済者、すでに到来したキリスト、あるいは人類の中の「霊的種族」の意味で使われることもある。同様に「真実なる人間」も、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説において、例外的に、至高神より下位のアイオーンの「オグドアス」の一つを指す。同書では「人間(アントローポス)」は至高神ではなく、より下位の神的存在(アイオーン)の一つ。

中間の場所
 ヴァレンティノス派グノーシス主義に特有な神話素で、大きくは超越的プレーローマ界と物質界の中間の領域を指す。より正確には、アカモートが終末までの間一時的に置かれる場所で、中間界以下を創造する造物主デミウルゴスの上に位置する。同書では心魂的な人間たちが終末において到達する場所。なお、『フィリポによる福音書』では例外的に忌むべき「死」の場所であり、滅亡の場所の意である。『シェームの釈義』では、巨大な女性器として見られた宇宙の中で「処女膜の霊」と「胞衣の霊」の下に位置する領域を指し、啓示者デルデケアスによるヌースの回収作業によって闇から清められる。

「対」
 ギリシャ語「シュジュギア」の訳。プレーローマの至高神が自己思惟の主体と客体に分化して、さまざまな高次の神的存在であるアイオーンを流出する。それと共に原初的な両性具有(男女=おめ)の在り方も男性性と女性性に分化し、男性アイオーンと女性アイオーンが一つずつ組み合わされて「対」を構成する。ヴァレンティノス派の場合には、ビュトス(深淵)とエンノイア(思考)、ヌース(叡智)とアレーテイア(真理)、ロゴス(ことば)とゾーエー(生命)、アントローポス(人間)とエクレーシア(教会)のように、ギリシャ語の男性名詞と女性名詞を巧妙に組み合わせて「対」関係を表現している。『ヨハネのアポクリュフォン』の場合も元来のギリシャ語原本では同様の消息であったと考えられるが、現存のコプト語の同義語へ翻訳した結果、文法的な性が変わってしまったために、ギリシャ語原本の神話論的巧妙さは失われている。
 『ヨハネのアポクリュフォン』は、ヤルダバオート配下の七人のアルコーン(男性)にもそれぞれ女性的「勢力」を割り振って「対」関係を造り上げているが、『この世の起源について』ではヤルダバオート以下、「十二人」、「七人」、も含めて、諸々の悪霊まで両性具有の存在と考えられている。

つくり物/こしらえ物/形成物
 ギリシャ語「プラスマ」の訳。例外的に積極的な意味で用いられることもあるが、大抵の場合はアルコンテスが造り出す心魂的人間、あるいは肉体の牢獄という否定的な意味で用いられる。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、「母」である半処女エデンが造り出したこの世のことである。

テトラクテュス
 ピュタゴラス学派では最初の四つの整数の和で「10」のことを指すが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説においては、超越的世界プレーローマの最も深部にある高次のアイオーンであるビュトス(深淵)、エンノイア(思考)、ヌース(叡智)、アレーテイア(真理)の四個組を指していう。

デミウルゴス [ギ]dēmiūrgos
 デミウルゴス(デーミウールゴス)はギリシャ語で「製作者」「構築者」の意。グノーシス主義においてはアルキゲネドール、パントクラトールとも呼ばれる。元来はプラトン哲学で語られる善なる造物主・創造神を指していう。プラトン哲学では、この善なるものとしてのデミウルゴスが、原型イデアに則って素材から宇宙を生成し、善きものとしての秩序を形成したとして神聖視されている(『ティマイオス』に詳しい)が、グノーシス主義においては打って変わって「呪われた偽りの神」として扱われており、真に善きなるものとしての至高神とは明確に区別されたうえ、その被造としての宇宙、そして秩序は転じて倒錯的なものであり、カオスだと貶められることになった。すなわちデミウルゴスは、カオスとしての宇宙を支配する征服者として扱われ、悪霊群の首領と位置づけられたのである。多くのグノーシス主義神話では、このデミウルゴスの位置づけに旧約聖書の神ヤーヴェを当てはめ、ヤルダバオート(無知蒙昧なる神)、サマエール(盲目の神)、サクラス(馬鹿な神)などといったように、明らかにそれを冒涜し、徹底的に貶める意味が含まれている語で表現する。
デミウルゴス詳細説明(執筆中)
→サクラス、サマエール(サ行)
→ヤルダバオート(ヤ行)

デュナミス/ホロス
 ギリシャ語「デュナミス」は、グノーシス主義においては通常「諸力」の意味で否定的に用いられるが、エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では例外的に、超越的世界プレーローマ内のアイオーンの一つで、ソフィアの過失を最小限にくい止める境界(=ホロス、カーテン)の役割を果たす。なお、護符に描かれるアブラクサスの左手に握られている鞭はデュナミス(力)を象徴するものである。

塗油
 元来は原始キリスト教において、洗礼の儀式との関連で行われた儀礼。洗礼は罪の赦しと同時に精霊を授与・受領する儀式とも理解されたので、その精霊が洗われないよう、受洗者を油で封印するために行われた象徴行為であると思われるが、洗礼と塗油の前後関係についてはよくわかっていない。その後も紀元後3-4世紀まで東方教会西方教会ではその順番付けが異なっていた。グノーシス主義の文書では、『フィリポによる福音書』が洗礼、聖餐、救済、新婦の部屋と並ぶ儀礼として繰り返し言及する。特に洗礼との関連が密接であるが、同時に洗礼よりも塗油の方が重要であることが強調される。「クリスチャン」の呼称は、本来の「キリストに属する者」という意味ではなく、「油を注がれた者」、すなわちグノーシス主義者を指すものに転義している。それどころか、塗油を受けたグノーシス主義者は一人一人が「キリスト」になるとされているのである。神話上の場面としては、『ヨハネのアポクリュフォン』で「独り子(またはアウトゲネース)」が至高神から「至善さ」によって塗油されて「キリスト」となる。ここでは、一方で「至善な」がギリシャ語では「クレーストス」、他方で「キリスト」が元来「塗油された者」の意で、ギリシャ語では「クリストス」であることを踏まえた語呂合わせが行われている。

泥/泥的
 宇宙と人間を霊、心魂、物質(肉体)にわけて捉えるグノーシス主義の三分法的世界観において、価値的に最下位のもので、物質と同義。貶下的な意味での「悪しき霊魂(ゼーレ)ども」という呼称も同義である。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では、造物主が物質(質料)の内の液状のものから造り、心魂的なものへ注入する。これは、至高神あるいは超越的世界プレーローマとは一切無縁の非神的要素である。そのため終末にあっては、最終的な救いに与ることができず、「世界大火」によって焼き尽くされる運命にある。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、イエスの十字架刑において心魂的部分と共に受難する部分として、受難を免れる霊的部分と区別されている。同書には泥的人間、心魂的人間、霊的人間の三分法が見られる。

 

グノーシス用語辞典(さ行)

グノーシス用語辞典

サクラス/サクラ
 主にヤルダバオート、サマエール、あるいはパントクラトール(万物の支配者)の名で呼ばれる造物主デミウルゴスと同じ。語源はアラム語ないしシリア語で、「馬鹿な」を意味する。

サバオート
 旧約聖書における「万軍の主なる神」という表現の、「万軍の」に該当するヘブル語を、神話論的に擬人化したもの。『アルコーンの本質』では、ヤルダバオートの息子であるが、父の愚かさを謗って離反し、ピスティス・ソフィアとその娘ゾーエーを賛美して、第七天へ移される。ゾーエーと「対」を構成する。『この世の起源について』でもほぼ同じ関係になっている。

サマエール
 サクラスあるいはヤルダバオートの別名。その語義は「盲目の神」。一説によれば、この語義説明はシリア語で「盲目な」を意味する形容詞“samyâ”との語呂合わせに基づいている。

子宮
 グノーシス主義救済神話の重要な象徴語の一つであり、積極的、中立的、否定的の三つの意味合いで用いられる。積極的な意味では、万物の「母胎」としての至高神、あるいはそれに準ずる両性具有の神的存在を指す。また、人間の胎児の宿る場所を指す。否定的には、男女の性行為によって、増殖・存続する現実世界の全体を指す。

十二人
 天の黄道十二宮(獣帯)を神話論的に擬人化したもので、『ヨハネのアポクリュフォン』と『エジプト人の福音書』では、造物主(ヤルダバオート)の配下としてその名前が列挙されている。『この世の起源について』では名前を挙げられるのは六人であるが、それぞれ両性具有であるために十二人とも呼ばれる。ただし、その六人の名前は『ヨハネのアポクリュフォン』や『エジプト人の福音書』のそれとは一部異なっている。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告による『バルクの書』では、「父エローヒーム」と「母エデン」がそれぞれ自分のために生む天子の数である。

終末
 プレーローマの中に生じた過失の結果として、物質的世界の中に散らされた神的本質(霊・光・力)が再び回収されてプレーローマに回帰し、その欠乏状態が回復されて、万物の安息が取り戻されること。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるヴァレンティノス派グノーシス主義によれば、その際、霊的なものはプレーローマに入るが、心魂的なもの「中間の場所」に移動し、残された物質的世界は、「世界大火」によって焼き尽くされる。『この世の起源について』では同様の終末論を黙示文学的な表象で描いている。また、宇宙万物の終末について論じるこのような普遍的終末論とは別に、個々人の死後の魂(霊)の運命について思弁をめぐらす個人主義的終末論があり、ティグリス・ユーフラティス河の下流域に現存するマンダ教などを含めて、グノーシス主義全体についてみれば、頻度的には後者のほうが多い。『真理の福音』では「終わりとは隠されていることの知識を受けること」とされている。

種子
 グノーシス主義の神話でもっとも頻繁に現れる述語の一つで、多様な意味で用いられる。一つは潜在的可能性の比喩として用いられる場合で、たとえば『真理の福音』で、人間を起こす「真理の光」は「父の種子」に満たされている。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説においては、世界の種子(=汎種子混合体、パンスペルミア)は三重の「子性」と世界万物を潜在的に包含する。エイレナイオス『異端反駁』の報告による、ヴァレンティノス派グノーシス主義の教説によれば、アカモートが造物主の中に密かに導く霊的存在のことで、しかるべき時まで成長を続ける。『三部の教え』でも「イエス・キリストの約束の種子」などのほか、潜在的可能性の意味での用例が多い。「一部」あるいは「肢体」もこの意に近い。今一つは「子孫」の意味の用例で、『ヨハネのアポクリュフォン』における「セツの子孫」、『フィリポによる福音書』の「人の子の種子」などがある。『アルコーンの本質』の「あの種子」(=単数)はさらに別の用例で、終末論的救済者を意味している。最後に、『この世の起源について』では、権威、天使、悪霊たちの精液のこと。

処女なる霊
 多くの場合「見えざる霊」と一組に用いられて、プレーローマの至高神を指す。ただし例外的にヤルダバオートの部下のそれぞれの所有物を指して言うことがある。

諸力
 ギリシャ語「デュナミス」の訳語。多くの場合「アルコーンたち(アルコンテス)」「権威たち」と同義語であるが、男性的なアルコンテスに女性的属性として組み合わされて、「対」関係を構成することがある。

心魂/心魂的/生魂/生魂的/魂
 グノーシス主義は人間(ミクロコスモス)を霊、心魂、肉体(物質)の三つから成ると見るのに対応して、宇宙(マクロコスモス)も超越的プレーローマ、中間界、物質界の三層に分けて考える。「心魂」はその場合の中間の原理。多くの文書で繰り返し「霊的なるもの」と対比される。その起源を神話論的に最も立ち入って、説明するのはヴァレンティノス派である。エイレナイオス『異端反駁』の報告によれば、アカモート(下のソフィア)の立ち帰りから導出され、「右のもの」とも呼ばれる。また、同書によれば、「善い行ない」によってのみ「中間の場所」へ救われる者たちを指す。『三部の教え』によれば、アカモートではなく、ロゴスが過失を犯し、その「立ち帰り」から導出される。ただし、魂と肉体の二分法に立つ文書もあり、たとえば『魂の解明』での「魂」は、三分法で言うところの「霊」と同じである。

身体
 『ヨハネのアポクリュフォン』や『この世の起源について』では「七人」のアルコーンたちによって造られる「心魂的人間」をさす。この人間は肉体を着せられる以前の人間であるから、「身体」は肉体性と同義ではなく、むしろ個体性の意味に近い。グノーシス主義否定神学は至高神がこの意味での「身体性」をも持たないことを強調する。ただし、『真理の福音』では、「彼(父)の愛がそれ(言葉)の中で体となり」と言われる。

新婦の部屋/婚礼の部屋
 ヴァレンティノス派に特有の神話論的表象および儀礼。エイレナイオス『異端反駁』の報告によれば、プレーローマの内部で「キリスト」(第一のキリスト)と精霊、アカモートとソーテール(=救い主、プレーローマの星、第二のキリスト、イエスに同じ)がそれぞれ「対」関係を構成するのに倣って、地上の霊的な者たちも、やがて来るべき終末において、ソーテールの従者たる天使たち(花婿)に花嫁として結ばれる。ヴァレンティノス派はこの結婚を「新婦の部屋」と呼び、その地上的な「模像」として一つの儀礼(サクラメント)行為を実践した。その具体的な中身について、エイレナイオスやヒッポリュトスを含む反異端論者の側ではいかがわしい推測も行われたが、最近の歴史的・批判的研究では「聖なる接吻」説と「臨終儀礼」説が有力である。ナグ・ハマディ文書のなかでは、『フィリポによる福音書』がもっとも頻繁に言及する。

世界
 目に見える現実の宇宙的世界のこと。プラトン主義では「最良の制作物」(アルキノス『プラトン哲学要綱』)と見做されたのと対照的に、グノーシス主義では、自らが不完全な「流産の子」である造物主(ヤルダバオート)が造り上げた不完全な「つくり物」として、超越的なプレーローマから価値的に厳しく区分される。たとえば、『復活に関する教え』によれば、この世界は一つの幻影であり、そこからの「復活」が救いである。ただし、この区分はグノーシス主義の展開と共に融和される方へと進み、「つくり物」の世界の形成にも、プレーローマの意志が隠れた形で働いていたとされるに至る。オイコノミア(経論)と表現されることもある。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説においては例外的に、まず「世界の種子(汎種子混合体、パンスペルミア)」について語り、その後でその「世界」を、「存在しない神」の超越的世界と下方の可能的世界に分割し、後者をさらに「オグドアス(大いなるアルコーンとアブラクサスの領域)」、「ヘプドマス(別のアルコーン=旧約の神の領域)」「ディアステーマ(僻地)」に三区分している。

セツ/セツの子孫
 セツは、旧約聖書『創世記』に登場するセツ(セト)のことである。このセツに、神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫であると見做したグノーシス主義グループがいたことはエイレナイオス、ヒッポリュトス、エピファニオスら、異端反駁論者の報告書から知られている。しかし、この三者の報告に食い違いが大きく、統一的なイメージに収斂しないため、いわゆる「セツ派」と呼ばれるグノーシス主義の歴史的実態は不明である。ナグ・ハマディ文書の中にも、『ヨハネのアポクリュフォン』、『エジプト人の福音書』、『アダムの黙示録(全体がアダムからセツへの掲示)』を初めとして、『アルコーンの本質』、『セツの三つの柱』、『ゾストゥリアヌス』、『メルキセデク』、『ノーレアの思想』、『マルサネース』、『アロゲネース』などがセツ派のものではないかと考えられている。なお、セツ(Seth)は、エジプト古来の神で、オシリス神話にも悪神として登場するセト神と同じ綴りであることもあって、ある時期以降、両者の混淆が起きている。

洗礼
 ナグ・ハマディ文書の中には洗礼について言及するものが少なくない。特に『三部の教え』では、「唯一の洗礼」「それを二度と脱ぐことのない者たちのための衣服」などの種々な呼称を紹介するほか、ヴァレンティノス派の洗礼に関する詳細な議論を繰り広げる。『この世の起源について』は、霊の洗礼、火の洗礼、水の洗礼という三種類の洗礼について語っている。『三体のプローテンノイア』では、女性的啓示者であるプローテンノイアが、覚知者を天使に委ねて洗礼を受ける。『アダムの黙示録』では、13の王国が終末論的救済者の起源について、それぞれ意見を開陳する結びのところで、「こうして彼は水の上にやってきた」という定型句が繰り返される。いずれの背後にもグノーシス主義的な意味づけを伴った洗礼の儀式が前提されている可能性が大きい。特に『フィリポによる福音書』では間違いなくそうである。同書では塗油の儀礼と密接に関連付けられ、価値的にはその下位に置かれている。『エジプト人の福音書』においても洗礼儀式が重要な役割を演じている。『真理の証言』と『シェームの釈義』は、水による洗礼を「汚れた」ものとして拒否する。

像/影像/似像/模像/模写
 『グノーシスの宗教』の著者で知られるハンス・ヨナスが提唱した、グノーシス主義救済神話の類型区分でいうところの、「シリア・エジプト型」の神話は、プレーローマの至高神から地上の肉体という牢獄に閉じ込められた人間まで、上から下へ垂直的に展開される。その展開を支える根本的な思考法は、「上にあるもの」が「範型(≒イデア)」となり、「下のもの」がその「像」(eikôn)として造り出されるというもので、基本的にプラトン主義の考え方に準じている。したがって、この「範型」と「像」という関係は神話のさまざまな段階において、大小さまざまな規模で繰り返される。
(1)バルベーローは至高神の似像(→『ヨハネのアポクリュフォン』)
(2)「第一の天(プレーローマ)」から下へ、上天が下天の範型となって、最下位の天まで365の天が生じる(→エイレナイオス『異端反駁』報告におけるバシレイデス派の教説)
(3)造物主(ヤルダバオート)は上なる「不朽の範型」を知らずに(→『ヨハネのアポクリュフォン』)、あるいはそれを見ながら(→『三部の教え』『この世の起源について』)、中間界以下を創造する。
(4)アルコーンたちは至高神の像を見ながら、その似像として心魂的あるいは泥的人間を創造する(→エイレナイオス『異端反駁』報告におけるヴァレンティノス派教説、『アルコーンの本質』)。
(5)エバはアダムの似像(→『アルコーンの本質』)であると同時に、
(6)プレーローマから派遣される「真実のエバ」の模像。
 その他、特に『フィリポによる福音書』では、「新婦の部屋」などの儀礼行為もプレーローマにある本体の模像とされる。
 また『トマスによる福音書』では、以下の三つの実体が区別されている。
(1)霊的「像(エイコーン)」
(2)地上の「像(エイコーンの複数)」
(3)「外見」または「似像(エイネ)」
(1)と(3)は、創世記の「像(ホイコーン)」と「似像(ホモイオーシス、そのコプト語訳がエイネ)」にあたる。(2)は(1)の地上における顕現形態で、(3)は(2)の反映かと考えられている。

ソフィア/ピスティス・ソフィア
 ギリシャ語で「智慧」の意。ヘブル語の「智慧」あるいは「智慧の女神」を意味する「ホクマー」を転用する形で用いられることがある。グノーシス主義救済神話では擬人化され、たいていもっとも重要視される女性アイオーンである。「シリア・エジプト型」のグノーシス主義救済神話においては擬人化されて、プレーローマの最下位に位置している。男性的「対」の同意なしに「認識」の欲求に捕らわれ、それを実現しようとしたことが過失となり、プレーローマの安息が失われ、その内部に「欠乏」が生じ、それがやがて出来損ないの息子である造物主デミウルゴスを生み出すことになり、中間界以下の領域生成につながっていくことになる。グノーシス主義は「認識」が救済にとって決定的に重要であることを強調する一方で、同時に認識欲の危険性を知っており、神話においてはソフィアの過失をその教示として示している。ヴァレンティノス派では「上のソフィア」、「下のソフィア」、「小さなソフィア」、あるいは「死のソフィア」、「塩(不妊)のソフィア」など、さまざまなレベルのソフィアが登場する。
 『アルコーンの本質』と『この世の起源について』では、「ピスティス・ソフィア(=ギリシャ語で「信仰・智慧」の意)」という名称で登場し、ヤルダバオートと「七人」を生み出し、アルコーンたちによる心魂的人間の創造をも陰で仕組むなど、陰に陽に神話全体の主役として描き出されている。さらに『この世の起源について』ではヤルダバオートの娘にもこの名が与えられており、「七人」の一人アスタファイオスの女性的側面を構成する存在もソフィアと呼ばれている。なお、護符に描かれるアブラクサスの右手に武装されている盾は、ソフィア(智慧)を象徴するものである。

ソフィア・ゾーエー
 ゾーエーとはギリシャ語で「生命」の意。新約聖書が「永遠の生命」という時と同じ単語である。グノーシス主義の神話では擬人化されて、終末論の文脈で働く女性的救済者の一人。「ソフィア・ゾーエー」とも、単に「ゾーエー」とも表記される。『ヨハネのアポクリュフォン』では「光のエピノイア」と同じ。『アルコーンの本質』ではピスティス・ソフィアの娘である。『この世の起源について』でも同様であり、サバオートに「オグドアス」の中の存在について教え、心魂的アダムを創造し、地的アダムを起き上がらせる。

 

グノーシス用語辞典(か行)

グノーシス用語辞典

カオス/混沌 [ギ]kaos [英]chaos
 しばしば「混沌」と訳されるが、原義は「原初にできた裂け目」。ギリシア神話を詳解しているヘシオドスの『神統記』によると、世界の淵源はカオスであり、そのカオスが生じた後にガイア(大地)やタルタロス(奈落)などが生じたとされる。しかしながら、ここで言われているカオスは現在理解されているような未分化で実体的な混沌というものではなく、原義の通り大口を開けたかの如くの「裂け目」であり、無実体の「空隙」のようなものであるということに留意する必要がある。グノーシス主義神話におけるカオスは、前者の未分化で無秩序な物質の領域をあらわすとともに光明の領域と対置されるのが常であるが、各神話における役割は統一的であるとはいえず、例えば『ヨハネのアポクリュフォン』ではその起源は説明されない。

カーテン/境界/垂れ幕/ホロス
 超越的領域である光の世界とその下方にある領域を隔てる境界の比喩的表現。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告によるバシレイデス派グノーシス主義の教説によれば、超越的世界に帰属する「第二の子性」が、その重さゆえに独力では帰れないため、精霊の手を借りて「存在しない神」の元へと還ることになるが、精霊そのものは超越的世界に帰属するものではないため、「蒼穹」となって、超越的世界とこの世の「隔てのカーテン」としての境界となる。『この世の起源について』では、ソフィアが「垂れ幕」と同定され、その陰からカオスが派生する。『アルコーンの本質』でも「カーテン」の陰から物質が派生する。『フィリポによる福音書』では、寝室の垂れ幕とエルサレム神殿の至聖所の垂れ幕が、プレーローマと被造世界の間に引かれた境界の比喩である。
→デュナミス/ホロス

完全なる種族/完全なる者たち
 グノーシス主義者の自己呼称のひとつ。「聖霊の選ばれたる種族」「真実なる種族」「人の子の種子」「揺らぐことのない種族」「王なき種族」といった呼ばれ方も同義。

教示者
 アルコンテスによって創造された心魂的人間としてのアダムとエバの前に現れ、真の認識とはなにかを示す啓示者。『アルコーンの本質』では、蛇にのり移った霊的な女がそれにあたり、善悪の木から食べることによって神々のようになれるとエバに教示している。『この世の起源について』においては、ソフィア・ゾーエーが、アダムに送った教示者としての「生命のエバ」あるいは「真実のエバ」を指し、楽園で知識の木に変身する。同書では、創世記三章の蛇が、「動物」として言及され、生命のエバの顕現形態、あるいはその息子として教示者の役割を果たす。

グノーシス/知識/認識[ギ]gnosis[英]knowledge
 ギリシャ語で「認識」の意。おのれの内にある至高神に由来する霊的な本質(本来的自己)を認識するかどうかで、個々人の救済が果たされるか否かがかかっている、とするグノーシス主義の根幹をなすキータームであり、グノーシス主義がまさに「グノーシス主義」と呼ばれる所以である。教示者が心魂的な人間に霊的な本質を告げ知らせるという形で、その認識をうながすパターンが多い。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるヴァレンティノス派グノーシス主義においては、過失を犯したソフィアが「存在において」形作られることが「認識に基づいて」形作られることに対照されている。同書では、後者が終末論的完成の意味で語られる。『この世の起源について』においては、「自分の認識」が「自分の本性」を明らかにする。特に『フィリポによる福音書』と『真理の福音』、および『アダムの黙示録』がかなり高頻度の割合で「認識」について言及する。このグノーシスの意味は、認識欲に駆られ、その分を超えた欲望を満たそうとすることとは次元を異にし、むしろ、それに対しては戒めの意味をも持たせていることに注意。ソフィアの至高神に対する認識欲に駆られた結果である過失は、まさにその認識についての注意点としても語られているといえる。また、ヒッポリュトス『全異端反駁』による報告の、バシレイデス派グノーシス主義の教説においては、その終末において、「存在しない神=至高神」の超越的世界から「蒼穹」によって分け隔てられている「この世」に、「存在しない神」が「大いなる無知(=無意識:agnoia)」を投げかけることで、「この世」にある超越的世界に帰属しないすべてのものが、分を超えた認識欲に二度と苦しむことがないようにするという点に、「認識」の両価性が表現されているといえる。

経綸(オイコノミア)
 ギリシア語のオイコノミアは、もともと「家」を意味するオイコスと「秩序・法律」を意味するノモスから成り立ち、字義通りに訳せば「家庭の秩序・規則を保つこと」となるが、一般的には「計画」や「行政」などという意味で使われる(因みにこのオイコノミアを英語化したものがエコノミーである)。キリスト教の正統主義教会においては、早くから世界史を神が人類の救済のために働く場所と見做す歴史神学(救済史の神学)の枠内で、「神の摂理、計画、予定」という神の働きに関して指す述語として用いられた。ナグ・ハマディ文書においては至高神と歴史の理解は、当然グノーシス主義的な解釈へと変更されているが、語義的には基本的に同じように用いられる。それは主に「空間的・場所的」という意味で、さまざまな「領域」をさしている。

欠乏
 ソフィアの過失の結果などから、プレーローマ内に生じる事態をさす。この欠乏が原因となって「つくり物」あるいは牢獄としての下方の世界と肉体が派生してゆく。従って、このプレーローマが欠乏を満たすことがグノーシス主義における万物の救済となり、個々人の救済もそのとき初めて最終的に完成される。

権威
 ギリシャ語「エクスーシアイ」の訳。『アルコーンの本質』のように、例外的にプレーローマの権威という積極的な意味で用いられることもあるが、多くの場合は「アルコンテス」あるいは「諸力」とほとんど同義語。『この世の起源について』では、カオスを支配する六人(ヤルダバオートを除く)を指し、ヤルダバオートの部下ではあるが、その愚かさをあざ笑い、心魂的人間を創造する。

 

グノーシス用語辞典(あ行)

グノーシス用語辞典

アイオーン
 アイオーンはギリシャ語で、ある長さの「時」、「時代」、「世代」を意味する。プラトンは「永劫」の意味で用いていた。グノーシス神話では、至高神の思惟による自己分化によって流出した神的存在が対を成し、さらにまた分化して多数のアイオーンを生み、それらによって充満されたプレーローマ界を形成する。アイオーンはその神的存在が擬人化されたものである。アイオーンはその名が意味する通り、至高神以下、時空そのものであり、時空を超越していく永劫なるものである。この多数のアイオーンたちによって形成されるプレーローマ界は至高神の圏域であり、人間の真実でもある。それは「悪なる物質宇宙」の創造者である偽りの神デミウルゴスとその支配下にある番天使(惑星天使)あるいはアルコーンの諸力(悪霊群)と対峙する。ただしアイオーンとアルコーンを区別する境界線ははっきりと分かれているわけではない。ヤルダバオートやデミウルゴスなどのプロトアルコーン(第一のアルコーン)は低次のアイオーンとみなすこともでき、バシレイデス派におけるアブラクサスなどにいたってはその中間者であって、悔い改めてアイオーンとなる。

アウトゲネース
 ギリシャ語で「自ら生まれた者」の意。『ヨハネのアポクリュフォン』では「独り子」、「キリスト」と同義である。

アカモート/エカモート
「智慧」を意味するヘブライ語「ホクモート」に由来する借用語。 ヴァレンティノス派グノーシス主義の教説においては、過失を犯した「上のソフィア」から切り離されたエンテュメーシス(思考/考察)の別称の一つで、「上のソフィア」との関係では「下のソフィア」ということになる。しかし同じヴァレンティノス派グノーシス主義の書と考えられる『フィリポによる福音書』では、「エカモート」と表記され、「エクモート」と呼ばれる「小さなソフィア」、「死のソフィア」、「不妊のソフィア」と区別されているため、少なくとも三段階のソフィアが考えられており、その中間を占めると考えられる。『バルクの書』においては、半処女エデンがエローヒームとの間に生んだ十二の天使の一人である。

アダム/アダマス
 グノーシス主義一般において、アダムは以下の三種類の形態をとる。
(1)超越的な光の世界のアダム
(2)アルコーン(アルコンテス)によってつくられる心魂的アダム
(3)肉体を着せられて楽園へ追放され、そこからまたエヴァと共に追放されるアダム
これはグノーシス主義一般に広く認められる、人間を「霊」「心魂」「肉体」の三つからなるとする人間論に対応している。『この世の起源について』によれば、これを「第一のアダム」「第二のアダム」「第三のアダム」と呼んで整理している。ただし、ヒッポリュトスの報告による『バルクの書』のアダムは、少々例外的に、半処女エデンと父エローヒームの結合の象徴として、霊的であると同時に心魂的な存在である。

アブラクサス/アブラサクス
 異端反駁者からではあるが、バシレイデス派グノーシス主義について報告しているエイレナイオス『異端反駁』、およびヒッポリュトス『全異端反駁』のいずれにおいても、唯一固有名詞が与えられていることが確認できる、可視的世界=宇宙万物の創造者にして流出源的存在。前者においてはアブラクサス(Abraxas)、後者においてはアブラサクス(Abrasax)と表記されている。いずれの綴りでもギリシャ語アルファベットの数価(A=1、b=2、r=100、a=1、x=60、a=1、s=200)に換算しての合計が365になることから、365の天あるいは一年365日の支配者とされる。ヒッポリュトスの報告においては、自分を超える推し量ることすら不可能な超越的世界における「存在しない神」の存在に気づいて、自らの立場を悔悟すると言う点において、更に下位の、無知蒙昧なデミウルゴス(造物主)としての扱いをされている旧約聖書の神ヤハウェ=ヤルダバオートとは明確に区別されている。
アブラクサス(詳細説明)

アルキゲネドール
 ギリシャ語で「最初に生み出す者」の意。グノーシス主義の神話においては、多くの場合、中間者以下の領域を造りだす造物主ヤルダバオートをさしている。『この世の起源について』によれば、ビステイス・ソフィアの「左」(不義)の座へ据えられる。

アルコーン/支配者/第一のアルコーン
 ギリシャ語で「支配者」の意。グノーシス文書として最も原初的なものとされる『ヨハネのアポクリュフォン』によれば、物質世界(この世)を創造した造物主=デミウルゴス(ヤルダバオート)を「第一のアルコーン(プロトアルコーン)」として、その支配下に黄道十二宮(獣帯)に対応する十二体の名別されているアルコーン、その下に七体、あるいはその下にさらに多数の悪なる番天使=アルコーンが存在し、複数形ではアルコンテスと呼ばれ、この世の物質世界を統治していると考えられている。これは「権威」あるいは「諸力」と並列的、交替的に表記されることが多い。造物主は自称神を名乗るところの「偽りの神」とされており、それを筆頭とするアルコンテスは、人間の本来的自己にして至高神と同質であるとされる霊魂を、肉体という名の牢獄に閉じ込め、そういう状態にあることについて人間を無知・忘却状態に陥らせている、いわゆる悪霊群である。世界を支配するアルコンテスは、ヤルダバオートが過失を犯したソフィアから引き出した、至高神の範型に対応する形で、それを知らず(無理解)のままに似像として造りだしたものだとされる。

安息
 多くの場合、ソフィアの過失によって、超越的な光の世界(プレーローマ)の中に欠乏が生じると共に失われたものであり、グノーシス神話においては様々な段階でその回復が目指される。ソフィアの過失の後に、天上界プレーローマに暫定的に回復される「真の安息」、霊的、心魂的、泥的人間がそれぞれの場所で与えられる終末論的安息、つまり救済を意味する。ヴァレンティノス派グノーシス主義によれば中間の場所を彷徨うことの反意語であり、「新婦の部屋の子どもたちの唯一の名前」である。魂の故郷であるプレーローマが安息の場所である。

一部/肢体
 ギリシャ語で「meros」。一般的に「部分」の意にも用いられるが、特殊な用法としては、女性的啓示者「プローテンノイア」や「雷」の「一部」で、製造世界に取り残され、彼女が降って世界から救済する対象、「霊」とも呼ばれる。「肢体」(melos)も同義に用いられる場合がある。「潜在的可能性」の比喩として用いられる「種子」もこの意に近い。

叡智/ヌース
 中期および新プラトン主義の神学と自然学の伝統では、至上の「第一の神」は最高の「知性」(ヌース)として、「魂」(プシューケー)とからだ(ソーマ)を超越する。世界はこれらに二つと同時に知性も備えた生き物であり、人間の魂も「第一の神」から送り出されたものとしてやはり知性を備えている。グノーシス主義文書の内、多かれ少なかれプラトン主義の影響下に書かれたものにおいては、これら三者を1対2に分割し、「知性」、すなわち「叡智」をプレーローマ内の、あるいは、そこに由来する神的な男性原理、「魂」と「からだ」を造物主に由来する悪の原理とする場合が多い。もちろん「魂」の扱いに関しては、『魂の解明』のように、それを始終神的原理とするものもあって一律ではない。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるプトレマイオスグノーシス主義において、ヌースは擬人化されたアイオーンであり、至高神プロパトール(ビュトス)が万物の初めを自身の中から流出しようとし、その伴侶シゲーとの間に生まれた子である。プレーローマ内でもヌースのみが至高神を捉えることができる存在だとされている。なお、護符に描かれるアブラクサスの足に相当する蛇はロゴス(理性)とヌース(叡智・精神)を象徴するものとされている。

エピノイア
 ギリシャ語で「配慮」あるいは「熟慮」の意。『ヨハネのアポクリュフォン』においては、造物主ヤルダバオート以下アルコーンの諸力の企図に逆らい、プレーローマから地上ののアダムに啓示(いわゆる「原啓示」)をもたらす女性的啓示者である。ただし、『三体のプローテンノイア』では、一方でプローテンノイアによって生かされている存在であるが、他方ではヤルダバオートの母であったりと、その立場は多様である。

エーレーレート/エレーレート
 アルモゼール、オロイアエール、ダヴェイテと共にプレーローマのアウトゲネース(キリスト)に属する四つの「大いなる光」の一つ(最下位)。『ヨハネのアポクリュフォン』では、プレーローマのことを知らず、直ちに悔い改めず、むしろしばらくの間ためらい、その後初めて悔い改めたものたちの魂がおかれた場所。『エジプト人の福音書』でもやはり同じほかの三つの名前との組み合わせで、プレーローマのセツの出現の文脈で言及されているが、その五千年後にはこの世を支配する十二人の天使を出現させる。『三体のプローテンノイア』でも同じ三つとの同じ順の組み合わせで現れる。『アルコーンの本質』ではノーレアに現れて、グノーシスを与える天使である(「四つの光り輝くもの」にも注意)。語源は不明瞭であるが、『アルコーンの本質』によれば、その語義を「即ち『理解』」と説明している。コプト語で残存する魔術文書にも現れるから、ヘレニズム末期の地中海世界東方ではかなり広く知れ渡っていた言葉であると思われる。

王なき種族/王なき世代
 「完全なる種族」や「揺らぐことのない種族」などと並んでグノーシス主義者たちの自己呼称のひとつ。『アダムの黙示録』では、十三の王国(支配)が終末論的救済者について誤った見解を述べた後に登場する。『この世の起源について』では、「四番目の種族」、即ち思考の種族とも呼ばれる。『アルコーンの本質』、『イエスの知恵』も参照。グノーシス主義の元来の担い手は、強大なローマ帝国の支配に組み込まれて禁治産状態に陥った東方地中海世界の被支配民族の知識層であったとされており、「王なき種族」という自己呼称は彼らの願望表現であるといえる。

オグドアス/八つのもの
 ギリシャ語で「八番目のもの」あるいは「八つのもの」の意。エイレナイオス『異端反駁』の報告によるヴァレンティノス派グノーシス主義では、光の天上界プレーローマの最深部における、プロパトール(=ビュトス)/エンノイア、ヌース/アレーテンノイア、ロゴス/ゾーエー、アントローポス/エクレーシアの男女四対八個組みのアイオーンを指していう。さらにプレーローマの下限を印すホロス(境界)の下に、アカモート(エカモート)が所在する「第二のオグドアス」が生成される。このアカモートからヘプドマスのデミウルゴスが生まれることになる。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告におけるバシレイデスの教説においては、第二の子性が精霊の助けを借りて上昇した際に、超越世界における「存在しない神」と同質でない精霊が取り残されて形成した、この世と超越世界の境界である蒼穹(すなわちこの世の限界線)にまで上り詰めた「大いなるアルコーン」とその子アブラクサスが形成し、その住処としている天上界のことである。それは旧約の神ヤハウェが住処としているヘプドマスより上位に位置している。『アルコーンの本質』においては光の超越世界プレーローマと同義。『この世の起源について』でも同じで、「垂れ幕」によって第七の天より下の世界から区切られている。『エジプト人の福音書』では、「父・母・子」が「三つのオグドアス」と呼ばれるなど繰り返し言及があるが、神話全体の組成における位置づけは不詳である。

男女(おめ)
 男女の性差を越えた存在の在り方で、グノーシス主義が希求する全体性の一表現。ただし、その神話論的な表現は多様で、たとえば『ヨハネのアポクリュフォン』では、至高神とバルベーローについてだけ両性具有が明言されるのに対し、『アルコーンの本質』では傲慢にして無知なる獣サマエールも男女(おめ)であり、『この世の起源について』ではヤルダバオート支配下の悪霊「十二人」「七人」「エロース」までもが両性具有の存在として登場する。『アダムの黙示録』では、両性具有ピエリデス(ムーサ)が、自己妊娠する。『魂の解明』においては、肉体に落下する前の個々の魂は男女(おめ)であるが、落下後の魂は処女となり、暴行・陵辱をうけることになる。『エジプト人の福音書』には「男女なる父」、『三体のプローテンノイア』においては、母であり父であるプローテンノイアについての言及がある。

 

アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート②

5.序論-「ラザロの復活」論-

 序論では二つの種類の死が問題となっている。

 

1⃣通常の肉体上の死

2⃣イエス・キリストによって約束された永遠の生命を信ずることができないという意味での絶望としての死

 

 序論は『ヨハネによる福音書』のいわゆる「ラザロの復活」で知られる11章を読んでおかないことには、これまでの記述の同義異語の受取り直し(反復)である側面があることには変わりはなくても、事細かには何を言っているのかがわかりにくくなっており、躓きかねない。そこで『ヨハネによる福音書』の11章について詳解しつつ、アンチ-クリマクス(キェルケゴール)が何をここで言おうとしているかを補足しておきたい。まずは、ぜひとも『ヨハネによる福音書』11章に当ってみていただきたい。

 

 ここに病める者あり、ラザロと云ふ、マリヤとその姉妹マルタとの村ベタニヤの人なり。此のマリヤは、主に香油をぬり、頭髮にて御足を拭ひし者にして、病めるラザロはその兄弟なり。姉妹ら人をイエスに遣して主、視よ、の愛し給ふもの病めりと言はしむ。之を聞きてイエス言ひ給ふこの病は死に至らず¹、神の榮光のため、神の子のこれに由りて榮光を受けんためなり」。イエスはマルタと、その姉妹と、ラザロとを愛し給へり。ラザロの病みたるを聞きて、その居給ひし處になほ二日とどまり、而してのち弟子たちに言ひ給ふ「われら復ユダヤに往くべし」。弟子たち言ふ「ラビ、この程もユダヤ人、汝を石にて撃たんとせしに、復かしこに往き給ふか」。イエス答へたまふ「一日に十二時あるならずや、人もし晝あるかば、此の世の光を見るゆゑに躓くことなし。夜あるかば、光その人になき故に躓くなり」。かく言ひて復その後いひ給ふ「われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起さん爲に往くなり」。弟子たち言ふ「主よ、眠れるならば癒ゆべし」。イエスは彼が死にたることを言ひ給ひしなれど、弟子たちは寢ねて眠れるを言ひ給ふと思へるなり。ここにイエス明白に言ひ給ふ「ラザロは死にたり²。我かしこに居らざりし事を汝等のために喜ぶ、汝等をして信ぜしめんとてなり。されど我ら今その許に往くべし」。デドモと稱ふるトマス、他の弟子たちに言ふ「われらも往きて彼と共に死ぬべし」。

 さてイエス來り見給へば、ラザロの墓にあること既に四日なりき。ベタニヤはエルサレムに近くして、二十五丁ばかりの距離なるが、數多のユダヤ人、マルタとマリヤとをその兄弟の事につき慰めんとて來れり。マルタはイエス來給ふと聞きて出で迎へたれど、マリヤはなほ家に坐し居たり。マルタ、イエスに言ふ『主よ、もし此處に在ししならば、我が兄弟は死なざりしものを。されど今にても我は知る、何事を神に願ひ給ふとも、神は與へ給はん』。イエス言ひ給ふ『汝の兄弟は甦へるべし』。マルタ言ふ『をはりの日、復活のときに甦へるべきを知る』。イエス言ひ給ふ『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか』。[マルタ]彼に言ふ『主よ然り、我汝は世に來るべきキリスト、神の子なりと信ず』。

 かく言ひて後、ゆきて竊にその姉妹マリヤを呼びて『師きたりて汝を呼びたまふ』と言ふ。マリヤ之をきき、急ぎ起ちて御許に往けり。イエスは未だ村に入らず、尚マルタの迎へし處に居給ふ。マリヤと共に家に居りて慰め居たるユダヤ人、その急ぎ立ちて出でゆくを見、かれは歎かんとて墓に往くと思ひて後に隨へり。

 かくてマリヤ、イエスの居給ふ處にいたり、之を見てその足下に伏し『主よ、もし此處に在ししならば、我が兄弟は死なざりしものを』と言ふ。イエスかれが泣き居り、共に來りしユダヤ人も泣き居るを見て、心を傷め悲しみて言ひ給ふ、『かれを何處に置きしか』彼ら言ふ『主よ、來りて見給へ』。イエス涙をながし給ふ³。ここにユダヤ人ら言ふ『視よ、いかばかり彼を愛せしぞや』。その中の或者ども言ふ『盲人の目をあけし此の人にして、彼を死なざらしむること能はざりしか』。

 イエスまた心を傷めつつ墓にいたり給ふ。墓は洞にして石を置きて塞げり。イエス言ひ給ふ『石を除けよ』死にし人の姉妹マルタ言ふ『主よ、彼ははや臭し、四日を經たればなり』。イエス言ひ給ふ『われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』。ここに人々石を除けたり。イエス目を擧げて言ひたまふ『父よ、我にきき給ひしを謝す。常にきき給ふを我は知る。然るに斯く言ふは、傍らに立つ群衆の爲にして、汝の我を遣し給ひしことを之に信ぜしめんとてなり』。

 斯く言ひてのち、聲高く『ラザロよ、出で來れ』と呼はり給へば、死にしもの布にて足と手とを卷かれたるまま出で來る、顏も手拭にて包まれたり。イエス『これを解きて往かしめよ』と言ひ給ふ。(『ヨハネによる福音書111-44節)

 

⑴「この病は死に至らず」

 通して読んでみれば一目瞭然の事なのだが、イエスの発言と行動は、徹頭徹尾それを見聞きする人々の応答・反応との間に齟齬をきたしており、全く理解されていない。まず、ベタニヤ村に住んでいるマリヤとマルタの姉妹が、人をイエスに遣わして彼女たちの兄弟ラザロの「病」を報告するところから始まるが、この報告は、このラザロの病が「肉体的な死の迫った肉体上の病」であるという意味では切迫感を伴っている。しかし、このラザロの罹った「肉体的な死の迫った肉体上の病」について、イエスは「この病は死に至らない(死で終わらない)」と言い、続けてそれは「神の榮光のため、神の子のそれを通して榮光を受けるためのものだ」と述べ、急いで駆け付けるということもなく、二日間場所を移動するということもなかった。イエスは最初からラザロの罹った病が「肉体的な死の迫っている病」であることを知っていながら「この病は死に至らない」と言ったのである。従ってこの言及そのものは、肉体上の病による死の切迫を問題としていたのではない。イエスを信じ、永遠の生命を信仰する者(キリスト者)からすれば、アンチ-クリマクス(彼がこれまでにないほどの非凡で高度なキリスト者であることを思い出してほしい)が言うように「[肉体上の]死は決して全てのものの最後ではなく、[肉体上の]死も又一切であるところのもの、即ち永遠の生命の内での小さな出来事に過ぎない」。むしろこの立場からすれば、「単に人間的に、そこに生あるのみならず、この生が最も完全な健康と力に充ちている時に希望があると言われる場合より、無限に多くの希望が[肉体上の]死の内に存する」のであって、「[単なる肉体上の]死など「死に至る病」ではない」のである。この意味でイエスは、ラザロの罹った「肉体的な死の迫った肉体上の病」を指して「この病は死に至らない」と言ったのであった。強調しておくが、この言葉には信仰の問題が強く込められており、アンチ-クリマクス(キェルケゴール)もこのことを汲んだうえでこの言葉を選択していると思われる。

 

⑵「ラザロは死にたり」

 イエスは二日経ってから行動を起こした。それはラザロが肉体上の死を遂げたことからのものであったが、イエスはラザロが肉体上の死を遂げるであろうことも、そうなったことも、誰から報告されるでもなく知っていた。二日間動かず、病床のラザロの下に駆け付けなかったのは、本章の後半において見せる、自分を遣わしたところの神の業の成就、つまり肉体上の死を遂げた者(ラザロ)を甦生させるという大いなる奇跡の成就のためである。イエスは自分の弟子たち或いは自分を信じると言っている周囲の者たちが、心の深いところで(つまり精神において)は信仰心に目覚めていない、つまり「精神になっていない」ことがよくわかっていたので、その者たちが信仰心に目覚めることができるように、つまり「精神になる」ことができるように、これをなそうとしたのである。これはすべて神の経綸である。イエスの行動は細部に至るまで全て、この神の経綸に基づいているのであって、無意味なところは一つもない。この神の経綸に基づいて、イエスはラザロのもとに駆け付けようとはせず、二日間動かなかったのであった。だが、これはイエス自身が当に分かっていたことではあるが、弟子たちには未だこの神の経綸がわからない。だからイエスが二日間動かなかった理由もわからなかったし、イエスが二日経ってから「私たちの友であるラザロが眠りについてしまった。だが、彼を眠りから覚ますために私は行く」と言ったことも、「[ラザロの罹った]この病は死に至らない」と言ったことの意味も、すべて誤解してしまう。神の経綸は人間の分際では測りがたいことであるので、弟子たちが誤解してしまうのも無理はないのではあるが。弟子たちは、イエスが当初ラザロについて彼の「病は死に至らない」と言っていることから、「眠りについてしまったラザロを眠りから覚ますために行く」と言っているイエスがラザロの肉体上の死を指して「眠りについた」と言っているところのそれを「睡眠」の意味と取り違えて捉えてしまっているだけでなく、ラザロの病がラザロを死に至らしめないのは、イエスがラザロの肉体上の病を治癒して、通常の意味で死なないようにするためだと誤解してしまっているのである。これが意味するのは、弟子たちが永遠の生命ということについて、心の奥深いところ(精神)において信じるということができておらず、通常の肉体上の死にのみ気にかけ固執しているということである。この弟子の誤解した言葉から、イエスは今度ははっきりと「ラザロは死んだ」と告げることになるのだが、これは「ラザロの肉体上の死」についての単なる事実確認やその事実の周知のためだけの発言ではない。もちろん通常の意味で「ラザロは死んだ」ということを弟子たちに告げる側面もあるのだが、イエスはこう言い直すことで、弟子たちのことを暗に述べているのである。イエスにおいては、ひいては永遠の生命を信じる立場(アンチ-クリマクスのようなキリスト者)においては、ラザロの罹った病はラザロを死に至らしめるものではないと正しく信じられており、ラザロはまさに死んではいない。だが、心の深いところ(精神)において永遠の生命を信じることができていない弟子たちにおいてはそうではない。だからイエスは「ラザロは死んだ」と言い直さなければならない。「ラザロは死んだ」と言わなければラザロの状態がわからない弟子たちは「精神になっていない」。つまり、この言葉は「絶望」であり「罪」であるところの「死に至る病」に弟子たちが罹っているということを暗示させているのである。心の深いところ(精神)において弟子たちが永遠の生命を、ひいてはイエスを信じることができていない以上、つまり死に至る病=絶望の地平しか持ち得ていない以上、彼らのその地平からでは、彼ら自身がまさしく死に至る病=絶望であるということを見出すことができない。そういう死に至る病=絶望である彼らにおいては、ラザロはまさしく通常の肉体的な意味で死んだというだけでなく、彼ら弟子たちが永遠の生命を信じることができていないという意味でも死んでしまっているのである。これは本章において、イエスの弟子たちだけでなく、マルタ・マリヤ姉妹、その他大勢にも徹頭徹尾当てはまっている。

 アンチ-クリマクスは「「この病は死に至らず」。しかし、ラザロは死んだ。弟子たちが、キリストがその後で、「我らの友ラザロ眠れり、されど我を呼び起こさん為に往くなり」と付け加えられたのを誤解した時、キリストは弟子たちにきっぱりと言った。「ラザロは死にたり」。かくしてラザロは死んだ、しかし、この病は死に至らなかった。ラザロは死んでしまった。しかしこの病は死に至らない」という記述で「この病は死に至らない-ラザロは死んだ」という対になる同じことを数度繰り返す形で序論の冒頭を記述している。これは以上のこと(⑴、⑵)を踏まえて読むと、アンチ-クリマクスは「この病は死に至らない」ということで信仰を、「ラザロは死んだ」ということで死に至る病=絶望=罪を表した上でこの二つの質的差異を強調し、「信仰か-罪か」という、人間がその人生においてどちらか一つの実存方式の選択を迫られる「これか-あれか」を強調して表しているということができる。これはシェイクスピアをよく参照していたキェルケゴールによる、アンチ-クリマクス版「To be, or not to be: that is the question:(「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と訳されることで有名な『ハムレット』の一節。「在るべきか在らぬべきか」とも「成るべきか成らぬべきか」とも訳しうる)」なのである。

 

イエスかれが泣き居り、共に來りしユダヤ人も泣き居るを見て、心を傷め悲しみて言ひ給ふ。[…]イエス涙を流し給ふ」

 イエスはこの記述の箇所に至るまでにマルタ・マリヤ姉妹との会話を経ているが、先にも述べておいたように、イエスとイエス以外の人々の間で交わされる会話は、徹頭徹尾全くと言っていいほどかみ合っていない。先述したことをまとめて言い直せば、この噛み合わなさは、ただ一人覚醒者であるイエスと、その他大勢の絶望者との間に隔たりとして存在する質的差異のためである。絶望者は酩酊者である。イエスがそうさせているのではない。「世の光」であるイエスが絶望ないし酩酊である者たちに関わることで、彼らの絶望ないし酩酊が明るみに出されるのである。ラザロの肉体上の死という出来事について、ラザロの姉妹であるマルタもマリヤも、そしてラザロの死を嘆き悲しむその他大勢の人々も皆、有限性・必然性・時間的なもの・利己的なものに執着している。みな口々に、盲目の人の眼を治せるイエスがここにいたのなら、その神の業をもってすればラザロの肉体上の病を治すこともできただろうに、そうすればラザロは死なずに済んだだろうに、と言ってイエスに疑問を抱いているのだ。マルタなどは、口ではイエスの言っていることをできるだけ真似してみせたり、イエスのことを信じている、信じ切っているなどと言ったりして、ざっと見ただけではあたかも同じことを語っているかのように見えるのだが、実際のところは心の深いところでは有限性・必然性・時間的なもの・利己的なものに執着しているため、イエスないし永遠の生命について信じ切れていないことが明るみに出されている始末である。そこでイエスは、みなして泣いているのを見て「心を傷め悲しみて言い給ふ」とあるが、この「心を痛め悲しみて」というのは「心の深いところにおいて憤りを覚え、興奮し」とも「霊において息巻いて、掻き乱され」とも取れる文である。後者の「霊において息巻いて」というのは、治癒物語で治癒者がことを行う前に精神集中することをさして表されることがある。これらのどの意味であっても、イエスがこのような心境を抱いているのは、周囲にいる実のところはイエスのことを信じ切れていないすべての死に至る病に罹っている者=絶望者に対してのものである。ただ一人覚醒者であるイエスからしてみれば、皆未だ死に至る病=絶望であることを打ち明けているも同然なのである。イエスは初めから「神が、自分を遣わしたことを、彼らが信じるようになるために」行動している。とりわけ「霊において息巻いて」と取る場合、これは、ラザロの復活という奇蹟を、神の栄光を、彼の周りにいる全ての人々に見せることで、群衆の死に至る病=絶望を治癒することを目的としたイエスの、精神集中の様を表しているということができる。続けて涙を流すイエスが描写されるが、これは周りにいたユダヤ人たちが言い出したような、単にラザロに惚れ込んでいたがためにその肉体上の死を嘆いたという描写ではない。イエスにとってラザロは、初めから、そして彼の墓に近づいていく一歩一歩の瞬間瞬間、その最後に大声で「ラザロよ、出で来たれ!」と呼ぶその瞬間まで、死んでいるとは考えられていない。アンチ-クリマクスが言うように、その最後の呼び声の瞬間に至るまで「「この」病は死に至らないことは既に十分確かなのである」。永遠の生命を信じるということのただ一人の真の覚醒者であるイエスが涙するのは、未だ心の深いところから神を、イエスを、永遠の生命を信じ切ることが出来ていない、自分の周囲にいる死に至る病=絶望である群衆のためである。そのうえさらに、永遠の生命を信じきることができていないという意味で、そのような群衆においては死んでしまっているラザロのために悲しんで涙しているのである。群衆においてはラザロは生きていないからだ。

 アンチ-クリマクスのようなキリスト者からすれば、たとえ、イエスが、ラザロの肉体上の死の迫った病について「この病は死に至らない」と言わなかったとしても、神人であり、「復活なり、生命なり」であるイエス・キリストが、墓へ歩み寄るというだけで、また、そのような彼がそこに在すということだけで、本当に彼を信じ切っていることからして、ラザロが罹った「この病は死に至らない」ということを意味する。最後まで誤解してはいけないのだが、イエスが復活させるから、ラザロの病は死に至らないと言われているのではない。アンチ-クリマクスが語るように、「まさに彼キリストがそこに在すが故に、この病は死に至らないのである」。

 

⑷「自然的人間」について

 序論の後半では、デンマーク語の原語でdet naturlige Menneskeと記され、ドイツ語訳ではder natürliche Menschと訳される「自然的人間」について記述されている。これは『コリント前書』214節に「性來のままなる人は神の御靈のことを受けず、彼には愚なる者と見ゆればなり」とあるところの「性來のままなる人」にあたる。新約聖書キリスト者になるとは精神になることであると説き、先のノートで見たように、それは「死に切る」ことであると説くわけであるが、それは、いかなる人間も精神としては生まれないからそう説くのである。自然的人間は心(SjelSeele=魂)と身(LegemeLeib=肉)であるだけである。自然的人間は、「相対的テロスに対して絶対的に関係し、絶対的テロスに対して相対的に関係する」という実存方式をとっている。自然的人間にとって肉体上の死は、他のどのような人間的苦難や悲惨にも増して最大の不安要素である。これに対して、キリスト者になる=精神になる=死に切るということで言われているのは、実存の改造=信仰によってこの不安を都度克服し、自然的人間が自然的人間として生きている、その世間的・この世的な実存方式を抜け出て、更に上の段階である「相対的テロスに対して相対的に関係し、絶対的テロスに対して絶対的に関係する」実存方式をとることを意味する。このようなキリスト者からしてみれば、自然的人間が抱えている「苦悩、病気、悲惨、苦難、災い、苦痛、煩悶、悲哀、悲嘆など」は言うに及ばず、肉体上の死ですら不安の対象にならない。キリスト者にとっては、「非本来的な絶望」の範疇であっても、「本来的な絶望」の範疇ではない。上記の引用におけるイエスの弟子たち、或いはラザロの死を悲しむ者たちはみな、未だこの自然的人間であり、非本来的な絶望者である。

 なお、キェルケゴールは自然的人間の特徴をさして、「凡庸さ(Ubetydelighed)」の一言で言い表すことがあるが、その「凡庸さ」というのは、「人生を可能な限り取るに足らないものにすること」、つまり「可能な限り理念を欠き、無精神的か、精神を欠いて生きるかすること」によって、人生を容易にしようとすることである。自然的人間の凡庸さは、客観性や真理を多数に都合のよいもので安易に措定しようとすることに関心を持っているということに表れる。この自然的人間の「凡庸さ」は「キリスト者に成る」=「精神に成る」=「死に切る」ということと対照的であるので、よく押さえておきたいところである。

 

 

 

アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート①

 本ノートは、アンチ-クリマクス(セーレン・キェルケゴール)著『死に至る病』(1849)について、概説的にまとめたノートである。まとめるにあたっては、私淑する大谷長、桝田啓三郎、山下秀智の三氏の解釈を大いに参考にさせていただいていることを注記しておく。なお、デンマーク語に関しては、筆者の調べられる限りのことを記したが、残念ながら(誠に残念至極なのだが)筆者は現段階ではデンマーク語はできない(ドイツ語も全然まだまだであるが…)。本ノートで用いるデンマーク語の原文や単語は、上記三氏の記述や、辞書引き程度に参照しつつ、邦訳(大谷長監修『キェルケゴール著作全集』における山下秀智訳や桝田啓三郎訳)及びドイツ語による逐語訳を参照しながらのまとめになることを明記しておきたい。特に断りがない場合、デンマーク語→ドイツ語→日本語という順で記している。単なるまとめノートとしてご覧いただければ幸いである。))

1.表題

 『死に至る病¹-建徳と覚醒のための²キリスト教的心理学的論述³-』アンチ-クリマクス⁴著/セーレン・キェルケゴール

⑴「死に至る病
 これは、序言でも引用されている『ヨハネによる福音書』の11章 4節にある「この病は死に至らず」から取られている。この表題の表現において理解しなければならないことはキェルケゴール自身の言及に基づけば以下のとおりである。

1⃣隠蔽性:隠蔽性ということで言われているのは、まず、この病を持つ人、或いはこの病を持つ誰もがこれを隠したがるということ。しかし、それだけではない。もっと恐ろしいのは、この病はかくも深く隠されているので、人はそれと知ることなくこの病をもっているということ。

2⃣普遍性:他の全ての病は、たとえば気候や年齢など、あれこれのやり方で限定されているが、「死に至る病」に関しては全くそうではないということ。

3⃣継続性:あらゆる年齢を通じて、永遠まで継続すること。

4⃣病の位置:「死に至る病」は自己の内に存する。これは内面性の事柄の問題である。この内面性の事柄の問題において、三つの病の形態が見出される。1⃣即ち、自己を持っていることについての絶望的無知。2⃣自己を持っていることに気づきつつ、絶望して自己自身であろうとしないこと。3⃣絶望して自己自身であろうと欲すること。

 キェルケゴールは、修辞的なもの、覚醒的なもの、魅惑的なものを適切に使用するには、この書があまりに弁証法的であり厳密である点で、『死に至る病』という表題があまりに抒情詩的であることと齟齬をきたすのではないかと考えていた。彼にとって問題だったのは、上記における特定の主要な諸点の課題が、修辞的に構成するには余りに大きいということだった。そこで修辞的構成のために彼が取ったのは、「弁証法的なものの代数学」だった。これは『死に至る病』という書の体系的・階層的構造そのものを指して言っている表現で、端的には目次にも現れていることである。

⑵「建徳と覚醒のための」

 「建徳」にあたるのはデンマーク語の名詞Opbyggelseであり、これはドイツ語では名詞Erbauungにあたる。どちらも動詞opbygge及びerbauenから作られた語で、これら動詞は「建てる」「建設する」「教化する」「敬虔な気持ちにさせる」「宗教心を高揚させる」「気持ちを引き立てる」「元気づける」などの意味を持っている。これら動詞は聖書におけるギリシャ語の動詞oikodomeoに対応させられている。oikodomeoには家(oikos)という言葉がもとにあり、「家を建て上げる」というのが原意である。『コリント前書』8章1節には「愛は徳を建つこと」とあるが、原文はhe agape oikodomeiで、oikodomeiはoikodomeoの名詞形である。Opbyggelse及びErbauungは、このoikodomeiに対応させられながら考えられている。「建徳」という訳はこれに拠っている。キェルケゴールは『愛の業』でこの建徳について詳しく説明している。そこでは、先に引用した『コリント前書』8章1節に関連して、『ルカによる福音書』6章47-48節の「凡そ我にきたり我が言を聽きて行ふ者は、如何なる人に似たるかを示さん。即ち家を建つるに、地を深く掘り岩の上に基を据ゑたる人のごとし。洪水いでて流その家を衝けども動かすこと能はず、これ固く建てられたる故なり」を取り上げるなど、「建徳」の「土台を据える」という意義が強調され、単なる量的な知識の集積をこととするのではなく、ひたすら精神の深みから信仰を打ち建てることを意味するとされている。『死に至る病』という書が「Til Opbyggelse=Zur Erbauung=建徳のための」と言われるのは、以上の意味のためのということになるのである。
 ところで、キェルケゴールはよくこのOpbyggelseをopbyggelig(建徳的)という形容詞を使って「建徳的談話」という表現で用いる。しかし、『死に至る病』の表題に用いられているのは「Til Opbyggelse=Zur Erbauung=建徳のための」という記述である。これらの言い方にはあまり違いがないように見えるかもしれないが、実際には自らの資格を厳しく問うキェルケゴール自身によって、これらの言葉の使い方を極めて厳密に区別している側面があることを見て取らねばならない。実際のところ、この表題表記は草稿の段階から紆余曲折を経て最終的に決定されたものであるという事実がある。当初は単に「キリスト教的、建徳的論述」とだけ書かれていたのだ。また彼は「私は「建徳的」という詩人の述語を用いるばかりで、「建徳のための」ということさえ用いないのだ」と日記に記している。この事情は、キェルケゴールが自身について、自分には説教者としての権威はない、という自覚があることが絡んでいる。この自覚は単に否定的な意味においてではなく、いわゆる説教の在り方に対する積極的批判も含むが、キェルケゴール本人においては「説教」よりは「談話」という言い方が、「建徳のための談話」というより「建徳的談話」という言い方が取られた。それではどうして『死に至る病』においては「建徳のための」という言い方が取られたのか。これは『死に至る病』という著作が、従来とは違った以上に高いキリスト教的立場から書かれていること、そしてこの著作の著者がアンチ-クリマクスという仮名著者となっていることと大いに関係している。
 一方、「覚醒」にあたるのはデンマーク語の名詞Opvækkelseで、これはドイツ語では名詞Erweckungにあたる。どちらも元来「喚起すること」或いは「眠っている者を目覚めさせること」を意味する語であるが、本書では「死から甦らせる」という宗教的な意味が付与されて用いられる。また宗教的には「信仰心を奮い立たせる」という用いられ方もされる。本書のOpvækkelse=Erweckung=覚醒という語においてはこれらの意味を含めて用いられているように思われる。つまり、「Til Opvækkelse=Zur Erweckung=覚醒のための」というのは、『死に至る病』という書が「目を覚まさせて自分の悲惨な状態に気づかせ、神には絶望という死に至る病をも癒して人間を甦らせる力があることを悟らせて、信仰心を奮い立たせるための」書だという意味となる。眠っているものが眠りを自覚しないように、眠りと覚醒との間には質的な飛躍が存在し、死に至る病死に至る病の地平からは明らかにならないからこその本書だというわけである。この「覚醒のための」とすることも、「建徳のための」と同じく、本書が、従来とは違った以上に高いキリスト教的立場から書かれていること、そしてこの著作の著者がアンチ-クリマクスという仮名著者となっていることと大いに関係している。先に引用した日記の手前には、「覚醒のためのとするのは、実を言えば、私の分に過ぎたことだ……それは私自身よりも高くにあることなので、そのために私は仮名を用いる」とある。

⑶「キリスト教的心理学的論述」
 「心理学的」というのはデンマーク語の形容詞psychologiskであり、ドイツ語訳では形容詞psychologischが当てられていて、これ自体は今日に言うそれと同語なのだが、その内容は今日のそれとは全く無関係である。キェルケゴールは彼の著作全体においてこの語を多用しているが、これは決して「典型的な心理状態の描写を指標とすること」という意味で用いられているのではない。この「キリスト教的心理学的論述」という語において言われているのは、今日の言葉で言い直すとすれば、次に記すことからして、「キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述」ということになる。

1⃣『死に至る病』の冒頭からして「人間とは何か?」という問いに対して「人間とは精神である。では精神とは何か?精神とは自己である。自己とは何か?……」とあの難解文へと続いていく記述によって本質規定を提示し、全ての本質規定がそうであるように、これによって一つの可能性を、即ちありうべき人間の理想像を表している。

2⃣それが上記において述べておいた「建徳と覚醒のための」ということの意味に連なっていることからして、単に現にあるがままの地上的価値尺度でしか生きていない自然的な人間=精神=自己は、本来的な人間=精神=自己でなく、本来的にはそうであるべき人間=精神=自己を見失い喪失した悲惨な状態[=絶望・死に至る病]にあるから、その悲惨な状態にあることに気づいて、本来ある人間=精神=自己となるべきであると要求し、そのような生成の努力が本来的に「実存する」ということであるとして、この「人間=精神=自己」という本質規定のうちに、人間の実現すべき課題を示している。

3⃣キェルケゴールは本名での諸著書(宗教的・信仰的・建徳的・右手(聖なる手)著作等と呼ばれる)においては直接的伝知という著作家=実存方式をとった。これは伝知内容が純粋な知識である場合に、その伝知内容を被伝知者に対してそのまま提示する著作家=実存方式である。仮名の諸著書(此の世的・非信仰的・審美的・左手著作等と呼ばれる)においては基本的に間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式をとった。彼がこの二つの著作家=実存方式を常に並行させながら右手・左手の諸著作を書くという方法を取り続けたことには、読者が左手著作を読むことで、それを機にキェルケゴール本人の名で刊行された右手著作へといざなうという意図が込められていた。『祖国』誌に連載した『ある女優の生涯における危機』(1848)をもってこのような著作活動に終止符を打とうとした。しかし彼はこれ以降、また別のかたちでの間接的伝知としての著作活動を続けることになる。『死に至る病』は、これ以降の著作であり、そのため他の仮名の諸著書とは事情が多少異なる(これは「アンチ-クリマクス」の項で詳述するが)とはいえ、同じく間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式をとっている。間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式というのは、伝知者が被伝知者に対して伝知内容を間接的に提示するのに努めることを指している。キェルケゴールは、伝知内容が実存的な理解を求めるもの(人間の生き方に関わる内容)などである場合、伝知者はその伝知内容を、被伝知者が実感をもって理解できるような仕方で伝知しなければならないとした上で、その一つの方法として、伝知内容の重要性を、読者が自分自身で気づくことができるような仕方で提示できるように努めた。これが「真実に欺き入れるということ」=「反省による伝知」とも言われる、彼のとった間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式である。『死に至る病』という著作において、「建徳と覚醒のためのキリスト教的心理学的論述」がなされる際の、仮名著者アンチ-クリマクスの名を持ってキェルケゴールが行使する間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式は、「病床の患者に臨んだ医者のような態度」として現れている。患者の病を直すためには、医者は治療にかかる前に病の位置を特定し、それがどのような病であるかを正確に診断しなければならないわけであるが、『死に至る病』のアンチ-クリマクスは、絶望=死に至る病が位置する人間の内面性の事柄それ自体に見られる症状のあらゆる現象形態、つまり「内面的に行為すること」それ自体に潜む病根の現象形態を厳密に分析することによって、実践の中の理論として診断書を記述し、その上でキリスト教的なものを反省すること、即ち「建徳と覚醒のための」治療薬が記された処方箋を記述している。

⑷「アンチ-クリマクス」
 アンチ-クリマクス(Anti-Climacus)という仮名著者の設定は、上記のことすべてと密接に絡んでいる。この関連には、基本的にアンチ-クリマクスに対してキェルケゴール本人及び彼の他の諸々の仮名著者、その中でも取り立てて『哲学的断屑或いは一断屑の哲学』(以下『断屑』)及び『哲学的断屑への結びの学問外れな後書』(以下『後書』)の仮名著者ヨハネス・クリマクスがどう位置づけられるかが重要な問題として含まれている。
 初め、キェルケゴールは『死に至る病』を自身の名で出すつもりでいたが、1849年6月頃にAnticlimacus(アンチクリマクス)という仮名に改め、これがさらに、Anti-Climacus(アンチ-クリマクス)と書き改められた。クリマクスの名は、未完に終わった『ヨハネス・クリマクス、或いは全てのものについて疑わるべし』(1842-3)という、一思想家の自叙伝的な試みとして構想された書物において用いられたのが初出である。これがのちに『断屑』及び『後書』の仮面著者として設定されることになった。ヨハネス・クリマクスという仮名がどこからとってこられたかには諸説ある。たとえば、1⃣前六世紀のビザンチンのある神学者がその主著『梯子(klimax)』によってヨアンネス・クリマコスと渾名されたことからとも、2⃣後七世紀のシナイの隠者にして修道士であった『天国への梯子(klimax tou paradeisou)』の著者ヨアンネス・クリマコスからとも言われる。こと後者に関してはキェルケゴールは大学最終試験準備の際にW.M.L de Wetteという人物の『キリスト教徳論及びその歴史教科書』をデンマーク語訳で読んでその引用に屡々出会ったという。どちらであるにせよ、いずれのギリシャ語Klimaxも『創世記』の「ヤコブの梯子」のイメージからきている。
 キェルケゴールは『後書』の締め括りである「最初にして最後の説明」や『我が著作家=活動に対する視点』『我が著作家=活動について』、日記や遺稿等において、彼の数多くの仮名使用について説明している。先に記しておいたように、キェルケゴールが仮名の諸著者の名を関する諸著書を刊行したとき、そこでは間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式がとられている。『後書』によれば、彼の多くの仮名使用は、彼の人物の中に偶然的な根拠をもっていたのではなく、「言葉のやり取りや心理学的に変化のある個人性の差異のために、善と悪、悔恨と有頂天、絶望と傲慢、苦悩と歓呼、等々における無遠慮さを詩的に要求したところの作品そのものの中に本質的な根拠をもっていた」のだとされる。この無遠慮さは、「いかなる実際の現実的人物も現実の道徳的限界の中では敢てなそうとか或いは敢て成そうと欲し得ないような心理学的首尾一貫さによってのみ、理念的に制限されている」とされる。キェルケゴール本人は「非人称的に或いは第三人称として人称的に、プロンプターであって、詩的に諸著者を作り出した」のであり、仮名著者の序言は彼らの創作であり、それだけでなく、彼らの名前もそうなのだとして、仮名の諸著書には彼自身の言葉は一つも存しないとした。仮名の諸著書並びに仮名の諸著者に対して、キェルケゴール本人は「第三者として以外にはいかなる意見も持たず、読者として以外に、それらの書の意義についていかなる知識も持たず、またそれらの書に対する最も遠い個人的な関係も持たない」とした。
 ただし、ヨハネス・クリマクスとアンチ-クリマクスという仮名著者を用いていることに関しては、事情が若干異なる。それは、多くの仮名著書においては仮名著者や仮名編集者の名を記すのに留まるのに対して、ヨハネス・クリマクスを仮名著者とした『断屑』及び『後書』、並びにアンチ-クリマクスを仮名著者とした『死に至る病』及び『キリスト教への修練』においては、キェルケゴールは自らの名を編集者或いは刊行者として記しているということである。また、最初にこれらヨハネス・クリマクス及びアンチ-クリマクスの仮名を用いることになった『断屑』と『死に至る病』は、どちらも当初は自身の名でもって刊行しようとしてとりやめたという経緯があり、この点においてほかの仮名の諸著書の諸著者がその諸著書の内容の着想と同時に案出されたということと異なっている。『後書』によれば、『断屑』のとびらに編集者として自分の名をヨハネス・クリマクスに並記したのは、「法律的かつ文学的に責任が自分にある」からであり、また「現実の中での対象の絶対的な意義のために、現実において示されるかもしれぬものを引き受けるべき、名前の挙げられた責任者がそこに居るという、義務を負った注意深さを表現することが必要だったからだ」という。この記述は『死に至る病』が刊行される前のものであり、まだアンチ-クリマクスという仮名が案出される前の記述であるが、アンチ-クリマクスにも一応は妥当するとみる必要がある。これはキェルケゴール自身が『死に至る病』刊行前後において、このヨハネス・クリマクスとアンチ-クリマクスの関係、及びこの二人の仮名著者と自分との関係について数多くの記述を残していることからそう言えると思われる。それらの記述から要点をかいつまんでまとめておく。

1⃣アンチ-クリマクスの仮名使用は、一応は他の仮名使用の諸著書と同じく間接的伝知=ソクラテス的産婆術という著作家=実存方式をとる。

2⃣アンチ-クリマクスの著作はヨハネス・クリマクスのそれと同じくキェルケゴール本人の名が編集者として添えられている。これが以上に記した意味で、他の仮名諸著者の諸著作と異なる。

3⃣『死に至る病』という、自分自身よりも高い立場にあるキリスト教的著作を世に出す資格・権利が自分にはないことを悩んだ果てに案出されたのがアンチ-クリマクスという仮名である。アンチ-クリマクスという仮名は、これまでにないほどの異常なまでに非凡で高度のキリスト者として、「建徳的著作家」つまりキェルケゴール本人よりも一層高い。それ以前の仮名使用は、編集者としてのキェルケゴールの名が添えられているヨハネス・クリマクスも含めて、彼本人よりも低い。ヨハネス・クリマクスのクリマクスには、完全なキリスト者を目指して上昇する方向が暗示されているが、アンチ-クリマクスは申し分のないキリスト者が暗示されることによって、上昇方向が停止を受けてその方向が逆になる。つまり、アンチ-クリマクスというキェルケゴール本人よりも一層高いものが呈示されることで、これがまさしくキェルケゴール本人を彼自身の限界内に引き止める。彼にしてみれば彼の生存は、アンチ-クリマクスの要求する高さに相応していない。他の仮名の諸著者は、キェルケゴール本人にしてみれば、彼らがキリスト者であることを否定しさえするほど低い立場に据え置いて案出されたのだが、アンチ-クリマクスはその反対であり、アンチ-クリマクスの立場からしてみればむしろキェルケゴール本人が、彼にとっての仮名の諸著者の関係のようになり、彼自身アンチ-クリマクスには身を屈し、断罪されてしまう立場になるという。

4⃣アンチ-クリマクスはヨハネス・アンチ-クリマクスと記されていたこともあり、またアンチクリマクスからアンチ-クリマクスという表記への変更がなされていることを見るに、これはヨハネス・クリマクスとアンチ-クリマクスが、どちらも間接的伝知によって、単純素朴に真のキリスト者であるという一点を目指すという共通点を持ちながらも、前者が自らを低く置いてキリスト者ではない立場に甘んじながら間接攻撃をなすのみで、その結果一切を諧謔の内に解消するだけであるのに対して、後者は自己と理念を混同しているほどのキリスト者ではあるが、その理念の叙述は全く正しく、明らかに直接攻撃をなす者だという点で、これら二人の仮名著者が相互対論的(弁証法的)に対立する者同士として位置づけられていることを表していると思われる。

2.冒頭に掲げられたドイツ語の引用詩

 Herr! gieb uns blöde Augen
 für Dinge, die nichts taugen,
 und Augen voller Klarheit
 in alle deine Wahrheit.

 主よ!我らに
 役に立たぬ物事に対してはかすめる眼を、
 そして汝の全ての真理には
 澄み冴えた眼を与えたまえ。(拙訳)

 これは、一般にカトリック神学者J.M.Sailerによる『エペソ書』5章15-21節についての説教として知られる詩である。「されば愼みてその歩むところに心せよ、智からぬ者の如くせず、智き者の如くし、また機會をうかがへ、そは時惡しければなり。この故に愚とならず、主の御意の如何を悟れ。酒に醉ふな、放蕩はその中にあり、むしろ御靈にて滿され、詩と讃美と靈の歌とをもて語り合ひ、また主に向ひて心より且うたひ、かつ讃美せよ。凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏みて互に服へ」(『エペソ書』5章15-21節)。詩は、このエペソ書の内容を踏まえた上で、この世的な真理と汝(主)の側にある真理との質的な断絶を対比している。この世的な真理は、どこまでも仮言的(カント)であり、条件付きである。いわゆる処世訓等はその典型である。そうしたこの世的な尺度に対してはどうかよく見えない眼をください、というのが「役に立たぬ物事に対してはかすめる眼を[与えたまえ]」というところのモットーである。そして、永遠の真理に対してのみ、常に澄冴えた眼を与えたまえと祈るわけである。無条件、無制約なものに接触するためには、上記のエペソ書の引用にもみられるが、この一途さが必要だというわけである。

3.序言

⑴序言の終わりにおいて「この作品全体において、絶望は薬としてではなく、病として理解されていることを、私はここではっきりと注意しておきたい。即ち、絶望はそれほどに弁証法的である」と述べられている。「弁証法的」というのはデンマーク語の形容詞dialektiskで、ドイツ語ではdialektischに当たる。キェルケゴールの場合は原意の「相互対論的」という意味に接近して用いられている。大谷長博士によれば、このような記述は「絶望の本来的「非-自由」性の弁証法的な様相を暗示している」という。この「非-自由」という表記は、大谷博士によるものであるが、彼がその際に表そうとしたのは、この「非-自由」のハイフンによって、キェルケゴール非自由とは、まさしく非自由であるが、自由がその非自由の雁字搦めの内で苦悶しており、そしてその非自由の最終局面において、自由が飛躍的に現成する、ということである。キェルケゴールのいう絶望は(これは本書やその他の著作における不安や憂鬱などといった概念もそうであるが)、この非自由の「非-自由」性の弁証法的な様相を持っているというのである。「絶望は薬としてではなく病として理解されている」という記述にもこの「非-自由」性の弁証法的な様相を見て取る必要がある。つまり、「表面的には病としての絶望理解」と「背後にある薬としての絶望理解」という、一見矛盾するようにみえる二項と、その二項の関係が弁証法的=相互対論的に考えられているということである。『死に至る病』を読む上では、常にこの絶望という非自由の「非-自由」性の弁証法的=相互対論的な構造に着目することが肝要となる。これを踏まえておくことで、一見「建徳と覚醒のための」と書かれていることと、「絶望は薬としてではなく病として理解されている」と書かれていることとに見られるような矛盾の本質を見て取ることができるようになる。

 

⑵上記の引用の直後には、続けて「同じように、まさにキリスト教的術語においても、死は最大の精神的悲惨のための表現であり、しかも治療はまさに死ぬこと、死に切ることなのである」とある。「死に切る」にあたるのはデンマーク語のafdøeであり、ドイツ語訳ではabsterbenである。キェルケゴールは日記において新約聖書この「死に切ること」を「精神になること」=「キリスト者になること」だと教えていると繰り返し述べており、この語をat leve som død=zu leben wie tot=死せるが如く生きると同義として扱っている。また、この「死に切ること」=「死せるが如く生きること」は「死の瞬間に見るようなふうに眺めること」とも「神を見るための条件」とも言われている。

 「死に切るというのは、宗教的には「地上的な快楽や満足から回心し、そういう楽しみを捨てて顧みない」という意味である。新約聖書において、この死に切ることは「罪に就きて死ぬ」或いは「キリストと共に死にて此の世の小學を離れ[て生きる]」などとといった表現で語られている。たとえば次の通りである「されば何をか言はん、恩惠の増さんために罪のうちに止るべきか、決して然らず、罪に就きて死にたる我らは爭で尚その中に生きんや」(『ロマ書』61-2節)。「彼(キリスト)は罪を犯さず、その口に虚僞なく、また罵られて罵らず、苦しめられて脅かさず、正しく審きたまふ者に己を委ね、木の上に懸りて、みづから我らの罪を己が身に負ひ給へり。これ我らが罪に就きて死に、義に就きて生きん爲なり。汝らは彼の傷によりて癒されたり」(『ペテロ前書』222-24節)。「汝等もしキリストと共に死にて此の世の小學を離れしならば、何ぞなほ世に生ける者のごとく人の誡命と教とに循ひて、『捫るな、味ふな、觸るな』と云ふ規の下に在るか。此等はみな用ふれば盡くる物なり。これらの誡命は、みづから定めたる禮拜と謙遜と身を惜まぬ事とによりて知慧あるごとく見ゆれど、實は肉慾の放縱を防ぐ力なし。汝等もしキリストと共に甦へらせられしならば、上にあるものを求めよ、キリスト彼處に在りて神の右に坐し給ふなり。汝ら上にあるものを念ひ、地に在るものを念ふな、汝らは死にたる者にして、其の生命はキリストとともに神の中に隱れ在ればなり。我らの生命なるキリストの現れ給ふとき、汝らも之とともに榮光のうちに現れん」(『コロサイ書』220-34節)。ここで最後に引用した『コロサイ書』の「キリストと共に死にて此の世の小學を離れ[て生きる]」という記述に目を留めてみよう。「此の世の小學」という文語訳は、原文ではstoicheia tū kosumūで、原意は「この世(世界)の諸元素」であり、エンペドクレスの四大元素(火・風・水・土)のことを指している。ヘレニズム期の諸宗教混淆の潮流の中ではこの四大元素が宇宙的秩序の維持の役割を果たしているものだとして礼拝対象となっており、特定の時節に特定の儀式を行う集団が現れていた。この様子は、『ソロモンの智慧』等に見て取ることができる。「まことに神を悟らざる全ての人は、生まれながらにしてむなしきものなり。眼に見ゆるよきものによりて、彼等は在まし給ふものを知る權をもたず、また、その業に目をとむる事によりて、それを造り給ひしものを認むる事を知らず、ただ、火、風、またはすみやかなる風、廻りゆく星、波立つ水、または天の諸星、これらのものを、世を治むる神々なりと思ひたりき。もし、これらのものの美しさを喜びてこれを神なりとしたりしならば、彼等はこれらのものよりも權ある主は、さらに勝れるものなるを知るべきなり。これらのものは美の最初の創造者によりて造られたればなり。されど若し、これらのものの權と勢ひに驚きたるによるものならば、彼等はこれらを造り給ひしものの、いかに力強きものなるかを知るべきなり。つくられしものの美しさの大いなるによりて、人は自づからにその最初の造主の姿を思ふなり。されど、これらの人々もせめらるる所少なし。おそらくは彼等も神を求め、神を見出さんと望みつつ、迷ひ出でたりしものなるべければなり。神の業の中に住みて彼等は心を盡くしてさぐり求む。されど彼等の見るものの、餘りに美しきゆゑに彼等はその見ることにとらはるるなり。されど、彼等とても言ひ逃がるべきやうなし、もし、かかる事どもを知る權をもち、事物の道をたづね知るを得たらんには、いかなれば彼等は、これらのものを造りし、權ある主をすみやかに見出さざりしや」(『ソロモンの智慧(智慧の書)』11-9節)。先の『コロサイ書』の引用の少し手前には、「然れば汝ら食物あるひは飮物につき、祭あるいは月朔あるいは安息日の事につきて、誰にも審かるな。此等はみな來らんとする者の影にして、其の本體はキリストに屬けり。殊更に謙遜をよそほひ御使を拜する者に、汝らの褒美を奪はるな。かかる者は見し所のものに基き、肉の念に隨ひて徒らに誇り、首に屬くことをせざるなり」(216-19節)とあるが、この「謙遜(自己卑下)をよそほひ御使(天使)をする」というのが、天使をも含めたこの世=宇宙的秩序を維持する支配勢力の下に跪くということであり、その象徴として一部の食物の忌避つまり断食を実践していたことになる。これが「この世(世界)の諸元素」に呪縛されることに相当する。文語訳でこれが「此の世の小學」となっているのは、この「この世(世界)の諸元素」に、中国の宋代における朱熹がその門人劉子澄らの協力を得て編纂した日常の礼儀作法や古聖人の格言・箴言・善行・人倫の実践的教訓などを古今の書から集めたもの」である『小学』に対応させたのだろうか。ともあれ「死に切る」ということが「キリストと共に死にて此の世の小學(世界の諸元素)を離れて生きる」と同義であるというのは、キリストの十字架を通して、神を離れた神のない罪の生活をまず殺し、その死を乗り越えて、神と共にある新しい生活に生きることを意味している。こうして、「精神になる」=「キリスト者になる」と同義である「死に切る」ということが、その少し前で絶望は薬としてではなく、病として理解されている[…]絶望はそれほどに弁証法的である」ということで言われている「「表面的には病としての絶望理解」と「背後にある薬としての絶望理解」という、一見矛盾するようにみえる二項と、その二項の関係が弁証法的=相互対論的に考えられている」ことや、冒頭に掲げられているドイツ語の詩にみられる弁証法的=相互対論的な記述と同じ弁証法=相互対論を見て取ることができるようになる。なお、この「死に切る」ということで生きられる場所は、あの世ではない。その場所はやはり元のこの世であることには変わりはない。また、だからといっていわゆる「世捨て人」のように隠遁生活を送ったり、修道院に入ったりすることには当たらない。『後書』のヨハネス・クリマクスは、この「死に切る」=「死せるが如く生きる」にあたることへの課題を、「信仰」=「実存的パトス」=「実存の改造」=「行為」であるとし、それを「絶対的テロスに対して絶対的に関係すると同時に相対的テロスに対して相対的に関係すること」としている。テロス(Telos)というギリシャ語が取られているのは、大谷博士によれば、「実践的理性が目的によって、つまり自分自身を越え出た一定の目的を持つことによって理論的理性から区別される」と述べたアリストテレスからの伝統にキェルケゴールが従おうとしたためだという。「相対的テロスに対して相対的に関係する」というのが上記の「此の世の小學」=「世界の諸元素」に従って生きること、「絶対的テロス対して絶対的に関係する」というのが「絶対的な倫理的善」=「永遠の浄福」の存することを個人が行為によって表現することでのみ証明しながら生きること(キェルケゴールの見解に従えば「絶対的な倫理的善」=「永遠の浄福」はそれによってのみ証明される)にあたる。「死に切る」=「死せるが如く生きる」以前の個人は、「死に切る」=「死せるが如く生きる」ことの課題とは全く反対に、「絶対的テロスに対して相対的に関係すると同時に相対的テロスに対して絶対的に関係する」ことに従事しており、「絶対的テロスに対して絶対的に関係すると同時に相対的テロスに対して相対的に関係する」ということから始めない。従って「絶対的テロスに対して絶対的に関係すると同時に相対的テロスに対して相対的に関係する」ということへの生成の努力が課題となるべきだということになるのだが、この「実存の改造」によっても、個人が実存の内に留まることには変わりはない。「実存の改造」においても、「絶対的テロスに対して絶対的に関係する」ことに努めるあまり「相対的テロスに対して相対的に関係する」ことを欠いてはならない。つまり、この世の内に踏み止まることを欠いてはならないのである。「絶対的テロスに対して絶対的に関係することに努めて相対的テロスに対して相対的に関係することを欠くこと」もまだ「死に切る」=「死せるが如く生きる」以前であり、「死に至る病」=「絶望」=「罪」なのである。「絶対的テロスに対して絶対的に関係すると同時に相対的テロスに対して相対的に関係する」というこの相互対論的(弁証法的)な関係の均衡に努めることを課題とする「実存的パトス」=「実存の改造」=「行為」は、内面性があまりに外面的な表現をとってはならないということや、世界と自分自身の間が質的に分かたれているということに関わらねばならず、この弁証法的=相互対論的な関係には少しの割引も不均衡も許されない。アンチ-クリマクス(キェルケゴール)が「死に切る」と言っていることのうちには、これだけの非常に困難な課題が呈示されているのだということを明記しておかなければならない。このことが、この序言に続く序論を読み解く上でも重要となる。