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ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート②-

 セーレン・キェルケゴールの著作『不安の概念』は、或る意味では、既にP・M・メラーが将来に激震を齎すだろうと予見し、ニヒリズムという名称によって総括した否定的な諸傾向を徹底的に論破するものと解されなければならない。ニヒリズムの傾向は精神的存在としての人間に対する信頼を毀損し、人間を単なる限られた偶然的な諸要素の産物に貶めてしまうであろう。

 これに対して、『不安の概念』におけるキェルケゴールの仮名ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、説得力に溢れた仕方で、人間は有限性に属する一存在であるばかりでなく、永遠性に向かって措定されていることを証明する。彼はこれを人間の現存在の歴然たる現象としての不安によって心理学的に基礎付けるのである。今や彼にとって人間の不安は、人間が永遠なるものへの関係を有している徴証となる。個々の人間にとって本質的な意味での自由について語り、同時にまた責任や罪についても云々することを可能ならしめるのは、まずもって人間におけるこの永遠的な要素なのである。[…]このような人間の自由・罪・宿罪の問題はあらゆる時代に顕在化するが、ニヒリスティックな傾向やあらゆる価値の相対化が強烈に支配する時代には特にラディカルになる。(グレゴーァ・マランチュク『キェルケゴールの〈不安の概念〉における自由の問題』より)

 

2.「自由-非自由」及び「罪性」における相互対論的両義性 

 前ブログ記事(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート①)で『不安の概念』の副題と緒論から「不変なもの」「罪が常に生ずるところのもの」「自由」「配置的前提」「罪の実在的な可能性」を関心の対象とする心理学の考察対象が『不安の概念』においては「不安」であるということを取り上げておいた。罪が常に生ずるところのもの、それは必然性によるのではなく、自由によるのだということはキーポイントである。これは、『不安の概念』という書物が、表面的には以上の意味での不安の問題を取り扱うが、深層的には自由の問題を扱う自由論であるということを含意している。「不安は、ここでは常に自由に関してしかるべく扱われねばならない(Angest er her bestandig at tage i Retning af Frihed.」(『不安の概念』22A12段落目)。キェルケゴールは自由の問題を、人間実存の本質的な課題であると確信していた。そのことは仮名著作・実名著作問わず見られ、彼の著作の全てがこれに関わっていると言っても過言ではないと思われる。キェルケゴールハウフニエンシスの名で「罪がいかにして生ずるか」ということを徹底的に心理学的[=実存反省的]に考察しようとした。そしてその態度を最初の人類の最初の罪においても貫いた。というのは、それが人間の罪の原型だからである。この心理学[=実存的反省]的考察では、前ブログに記しておいた通り、宿罪(遺伝的罪)の教義はもとよりある前提とされる。宿罪の教義は人間の堕罪とは別のものであるから、罪の発生の心理学の妨げとはならない。ハウフニエンシスにおいては、罪があるということではなく、罪が発生するに至る事態こそが最も緊要の関心事となっている。罪の問題を根源的に反省する瞬間には自由の問題が存在する。罪の問題と自由の問題は双生児のようなものである。古来よりこの問題は、一般の教義が教えるように、アダムの原状態としての純然たる自由状態が、アダムの堕罪によって失われたとだけ説明される。これに対してハウフニエンシスは、アダムにおいて既に、のちの人類と同じように不安があったとした上で、そのようなアダムにおいては、以上のような無記の自由が初めからあったのではなく、むしろ自由の可能性として非自由が初めからあったのだとする。アダムの無の不安という非自由の現実性は自由の可能性としてある。このことは、ハウフニエンシスの言う不安に、自由と非自由の相互対論的(dialektiskな両義性Tvetydighedがあるということを意味する。そして堕罪後のアダムにおいても、後々の個々人同様、罪の結果としての不安という意味での非自由が生じている。ここでもまた、再び不安の非自由の現実性は自由の可能性としてあり、やはり自由と非自由の相互対論的両義性があるということになる。本ブログ以降の説明において筆者は、後々の説明の便宜上、アダムの堕罪前の非自由を「無自由」と表記し、堕罪後の非自由をそのまま「非自由」と表記することにして、それらの非自由の質的差異を表すことにする。そしてこの無自由・非自由の双方の現実性が自由の可能性としてあるという、その自由と非自由の相互対論的両義性を、私淑する大谷長に従って「非-自由」性と表記したい。大谷長が「非-自由」という表記において説明しようとしたことで重要なのは、そのハイフンでもって、自由と非自由の相互対論的両義性が持っている質的飛躍の瞬間を引き起こす「飛躍の弾力性Springets Elasticitet」(キェルケゴールないしハウフニエンシスがTvetydighedという言葉を使う時には「曖昧さ」を表しているのではなくてこの弾力性を説明している)を表しているということである。不安の無における無自由・非自由の「非-自由」性において自由はその内で苦悶しているが、その最終局面において飛躍的に、行動・行為として、眼前に隠れることなく、ありのままに現れるのだと。この意味で無自由・非自由の「非-自由」性は同時に自由の「非-自由」性でもある。自由は人間実存の自己現成の保証の方向で考えられているのである。このように説明されれば、ハウフニエンシスが、仏教用語でいうところの「大自在力」(心が煩悩の束縛から解放されて自由となり、何事でも思うがままになしうるという、仏・菩薩が持つとされる能力)のような意味合いを、不安に持たせているのだと見て取る方もおられるのではないだろうか。

 ところでハウフニエンシスは「宿罪(遺伝的罪)は現在的なものであり、罪性である。そしてアダムは、罪性のなかった唯一の者である。罪性はアダムによって生じたからである(Arvesynden er det Nærværende, er Syndigheden, og Adam den Eneste, i hvem denne ikke var, da den blev ved ham.)」と述べている。エマニュエル・ヒルシュは彼自身の『不安の概念』の独訳において、この罪性に当たるデンマークSyndighedはドイツ語では用いられないと指摘している。彼によると、Syndighedというデンマーク語は、ドイツ語的にはSündlichkeitSündhaftigkeitの間を揺れ動くような両義性があり、そのことを表すためにSündigkeitというあまり用いられない訳語をとったとする(ただし形容詞sündigは普通に用いられる)。筆者がこの説明を補足するとすれば次のようになる。SündlichkeitSündhaftigkeitを日本語に訳するとその意味は殆ど大差がないように思われるが、この場合、語の構成を見ておく必要がある。前者の語を構成しているlichは名詞Sündeにつけて「…に属する、…に関する、…の性質の、…のある」等を意味する形容詞をつくるのに対して、後者の語を構成しているhaftは名詞Sündeにつけて「…のような、…らしい、…のある」を意味する形容詞をつくる。そしてどちらもkeit(後者はhaftで終わるのでhaftigkeit)をつけて形容詞から女性抽象名詞を作ったかたちになっている。どちらもそんなに違わないように見えるが、ドイツ人であるヒルシュに言わせると微妙に両者のニュアンスは異なるようである。つまり、Sündlichkeitが直訳すれば「罪に属すること、罪に関すること」という意味で、その語で罪そのものを直接指し示すのに対して、Sündhaftigkeitは「罪のようなこと、罪らしいこと」という意味で、Sündlichkeitと比較すると、どちらかといえばではあるが、罪そのものを直接指し示すのではない、ということになる。そしてヒルシュがSyndighedにあてた訳語Sündigkeitを分析すると、igを名詞につけて「…のある、…のような」を意味する形容詞をつくり、更にkeitをつけて女性抽象名詞をつくっているのであり、以上のSündlichkeitSündhaftigkeitの両義を持つ語であることを示しているわけである。遠回りになったが、デンマーク語のSyndighedの語の構成は名詞Syndigをつけて形容詞化し、更にhedをつけて共性抽象名詞となっているものであり、語の構成としてはSündigkeitと同じつくりをしているのであって、実際に以上に見たように、相互対論的両義性を予想する意味合いを、このデンマーク語自体が持っているとみなければならない。大谷長は『キェルケゴールにおける自由と非自由』において、以上と同じことを実に正確にSündlichkeitを「罪深さ」、Sündhaftigkeitを「罪が付き従っていること」と訳し分けてヒルシュが用いたSündigkeitの両義性を見事に簡明に説明しているが、辞書を調べても単に訳語を見るだけではわからない。よって筆者は語の構成を補足として説明する必要を感じたのでここに解釈を載せておくことにした。そしてこのことは実際にハウフニエンシスが、罪が質的飛躍によって生ずること=罪の生成・キネーシスを説明する過程で言われているところを見てみることで確認できる。

Veler hun skabt ligesom Adam, men hun er skabt ud af en foregaaende Skabning. Vel er hun uskyldig ligesom Adam, men der er ligesom en Ahnelse om en Disposition, der vel ikke er, men dog kan synes som et Vink om den ved Forplantelsen satte Syndighed, der er det Deriverede, hvilket prædisponerer den Enkelte uden dog at gjøre ham skyldig.

 確かに彼女(エバ)はアダム同様に創り出された。しかし彼女は或る先行の創造物から創られた。確かに彼女はアダム同様に無垢である。しかしそこには言ってみれば或る配置についての予感(en Ahnelse om en Dispositionがあり、それは確かに罪性ではないが、しかし伝播によって据えられた罪性(Syndighed)についての目配せのように見ることができる。その罪性は派生されたものであり、これは個人を罪責あるものにすることなくして、彼に対して前配置する(prædisponererのだ(拙訳『不安の概念』第1章第6節・強調は筆者)。

 この文が説くところは次の通りである。エバは先に創られたアダムから創られた。それ故エバはアダムと同様に無垢なのだが、彼女には、伝播によって据えられ、派生された罪性の目配せとも言うべき配置についての予感がある。この派生された罪性は、単独者を罪責あるものにするのではない。この派生された罪性は、単独者がやがて質的飛躍によって罪責ある者になることを前配置するものであり、人類においてそのような罪責の拡がりが生ずる、しかしその罪責の拡がりはやがて贖いによって克服される、という配置が、実は前もって純粋有den rene Værenキェルケゴールが永遠なもの、或いは永遠性と呼ぶところの救済理念の霊的な絶対存在としての神の抽象的表現。これはヘーゲル的な汎論理的-弁証法的な抽象による絶対精神的純粋存在とは全く異なる)によって設えられていることを意味し、エバを通じてその配置についての予感が暗示されているということを示している。そしてそれは、人間に罪が生じてそれが贖罪の救いによって根絶されるべき遠く長い配置の前配置(Prædisponeren)である。この或る配置についての予感とは、純粋有の予感であり、贖罪によって罪が浄化される配置を前配置として感ずることを意味する。そしてこの意味合いの中でSyndighed(罪性)は「個人を罪責あるものにすることなくして、個人に前配置するもの」と言われる。「罪深いこと(Sündlichkeit)ではないが、罪が付き従っていること(Sündhaftigkeit)」であるわけである。こうした語法こそ、Syndighedについて上記に見たような、相互対論的両義性を持っているものと言わねばならないだろう。

 

【参考文献】

Søren Kierkegaards Skrfter(セーレン・キェルケゴールデンマーク語原文が読めるサイトです)

Begrebet Angest 1844(『不安の概念』独訳:Thomas Sören Hoffmann 編„Der Begriff Angst“/„Die Krankheit zum Tode“ marixverlag 2011 邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳)

■大谷長 著『キェルケゴールにおける自由と非自由創文社 1977

聖書ウィキソースで全文読めます。)

 

ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』考-まとめノート⓵-

 本ブログ記事は、非常に難渋な言い回し方が多いヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)著『不安の概念』について、原文を参照しつつそのアウトラインを追うことができるようにまとめたノートです。アウトラインを追えるようにするという意味で、本ノートを参照する際は、できればどの訳でも構わないので邦訳があるとよいのではないかと思われます。デンマーク語からの訳は基本的に拙訳ですが、まとめるにあたっては私淑するキェルケゴール研究の大家であられた故・大谷長博士の邦訳及び解釈、及びトーマス・セーレン・ホフマンの独訳を大いに参照させていただいています。私の訳に誤訳等のご指摘がありましたらTwitter @Leethoo_Tatまでお知らせいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

 

1.副題と緒論からみる課題設定のアウトライン

 

En simpel psychologisk-paapegende Overveielse

i Retning af det dogmatiske Problem

om Arvesynden

af

VIGILIUS HAUFNIENSIS

 

宿罪¹⁾についての

教義学的問題の方向への

単純な心理学的²⁾-指標的探求

ヴィギリウス・ハウフニエンシス³⁾ 著

 

 ハウフニエンシスは『不安の概念』「緒論」でこう述べている。「本書が課題に据えたのは、宿罪についての教義を忘れずに覚えておき、かつ眼の前に持つというようにして、「不安」という概念を心理学的に取り扱うということである(Nærværende Skrift har sat sig som Opgave at afhandle Begrebet »Angest« psychologisk saaledes, at det har Dogmet om Arvesynden in mente og for Øie.)」(拙訳『不安の概念』「緒論」4段落目)。副題で言っていることはこのことと同じ意味である。ハウフニエンシスは、ひとまずは罪の概念を問題にしなければならないとする。とはいえ、彼においては罪は、心理学そのものの関心事たるような問題ではない。彼は、心理学が罪の生ずるに至るまでのギリギリのラインまでを、そしてまた罪の生じた瞬間以後の状態を、その考察領域とするものであるとして、罪そのものの説明は教義学に委せるものとした。心理学は罪がいかにして生ずるものなのかを問題とし、あたかも罪がそこにあるかのところまではついて行くことはできる。しかし罪が生ずるということ、ないし罪がそこにあるということ自体は心理学の取り扱いうることではないというわけである。「心理学が関わるべきものは、動かされた安寧の中に留まっている安らっているものでなければならない。それは常に自分自身を生み出すか或いは抑制されるかというような不安定なものではない。しかしその不変なもの、そこから罪が常に生ずるところのもの、それは必然性によるのではない――というのは、必然性による生成は、たとえば植物の全歴史が一つの状態であるというように、一つの状態であるからである――そうではなくて、自由によるのである。この不変なもの、その配置的前提罪の実在的な可能性それが心理学の関心の対象である。Hvad Psychologien skal have med at gjøre maa være et Hvilende, der forbliver i bevæget Rolighed, ikke et Uroligt, der bestandigt enten producerer sig selv eller reprimeres. Men det Blivende, det, hvoraf Synden bestandig vorder, ikke med Nødvendighed; thi en Vorden med Nødvendighed er en Tilstand, som f. Ex. Plantens hele Historie er en Tilstand, men med Frihed, dette Blivende, den disponerende Forudsætning, Syndens reale Mulighed, det er en Gjenstand for Psychologiens Interesse.)」(同15段落目)。以上に言われている「不変なもの」「罪が常に生ずるところのもの」「自由」「配置的前提」「罪の実在的な可能性」を関心の対象とする心理学の考察対象が『不安の概念』における「不安」である⁴⁾というわけである。このことは後々続いていくハウフニエンシスの議論において重要なのでよく踏まえておきたい。

 ところでヘーゲルは心理学を主観的精神の学とした(『エンチクロペディ』§387)。しかしそれは、それが罪の問題に面するや否や、主観的精神の学自体が何よりもまず絶対的精神の学に転換する必要に迫られる。ハウフニエンシスは、それはつまり教義学なのだと批判したかたちとなっている。「心理学が罪の実在的な可能性を探求するのに対して、教義学は宿罪、即ち罪の理念的可能性を説明する(Medens Psychologien udgrunder Syndens reale Mulighed, forklarer Dogmatiken Arvesynden, det er Syndens ideelle Mulighed.)」(同19段落目)。

 ハウフニエンシスは「罪はその定められた場所を有しているか、或いは実を言えばそれは全く場所を持っていない。しかしこれが罪の規定である(Synden har sin bestemte Plads eller rettere den har slet ingen, men dette er dens Bestemmelse. 」(同4段落目)としている。「罪の概念には真剣さが対応する(Til Syndens Begreb svarer Alvoren.)」(同7段落目)のであるから、その真剣さという気分に相応しくない場所で罪が取り扱われることは不可能である。従ってハウフニエンシスは、罪が美学、形而上学、論理学、心理学、倫理学において無反省に取り扱われるのであれば、罪の概念は作り変えられてしまい、罪の概念に正しく対応する真剣さという気分も混乱させられることになるとするのである。ハウフニエンシスが説くところに従えば、我々にしてみれば真剣さという気分が対応する罪の概念には倫理学がその場所として最も相応しいのではないか、と一見思われるかもしれないが、実のところ倫理学は、理念性を現実性へともたらそうとするけれども、現実性を理念性へともたらそうとする方向をとらないという問題がある。つまり、理念的な要求を掲げておいて審くことはするけれども、養うということをしないわけである。倫理学の根幹はその理念性にあるのだが、もし倫理学が罪を取り上げようとするものなら、その理念性はおしまいになってしまうというのである。罪は個人を超えた前提であり、どこまでも人間に根深く存する前提である。倫理学はここにおいてもはや役に立たなくなる。更に「宿罪(原罪:Arvesynden)」という倫理学の領域の全く外にある範疇が現れてくると、倫理学で罪の概念を考察するにはより一層絶望的となる。罪は決して一つの例外というわけではない。ここで罪を前提し、そして宿罪を前提とすることで罪を説明する学、即ち現実的なものを理念性に高めるために現実的なものをもって始める教義学が登場する。ハウフニエンシスはこのように宿罪ないし罪の問題については、本質的に教義学が取り扱うべきものとした。「宿罪についての 教義学的問題の方向への 単純な心理学的-指標的探求」という副題は、以上のように、教義学に向かうべき指標を与えるための単純な心理学的考察を「不安」に関して行うということを断っているのである。

 ただしここで注意しなければならないことがある。それは、ハウフニエンシスが、教義学が純粋に取り扱われることは稀であるとした上で、伝統的な教義学理解を批判しているという点である。「教義学と共に、かの厳密な意味で理念的学問と呼ばれるところのものに対して反対のところで、現実性から出発する学問が始まる。教義学は、現実的なものを理念性へ高めるということのために、現実的なものをもって始める。教義学は罪の現存を否定しない。それどころか、教義学は罪を前提とし、そしてそれを宿罪を前提するということによって説明する。しかし、教義学が純粋に取り扱われることは極めて稀である。だからひとが屡々見出すのは、宿罪がそのように教義学の領域の中へ引き入れられる場合に、教義学の異質的な由来の印象が一目瞭然ではなく、却って混乱させられるということである。このことは、ひとが教義学の中で天使、聖書等々についての教義を見出す場合にも起こる⁵⁾。それ故に、宿罪を教義学は説明すべきではなくて、宿罪をあたかもかの渦巻⁶⁾のように、それを前提することによってそれを説明すべきなのである。かの渦巻についてはギリシャの自然思弁が幾つかのことを語っている。これはどのような学問も捉えられない原動的な或るものなのである。(Med Dogmatiken begynder den Videnskab, der i Modsætning til hiin stricte saa kaldte ideale Videnskab gaaer ud fra Virkeligheden. Den begynder med det Virkelige for at hæve det op i Idealiteten. Den negter ikke Syndens Tilstedeværelse, tvertimod, den forudsætter den og forklarer den ved at forudsætte Arvesynden. Da imidlertid saare sjeldent Dogmatiken behandles reent, saa vil man ofte finde Arvesynden saaledes dragen ind med indenfor dens Grændse, at Indtrykket af Dogmatikens heterogene Oprindelighed ikke springer i Øinene, men forvirres, hvilket ogsaa skeer, naar man i den finder et Dogme om Engle, om den hellige Skrift o. s. v. Arvesynden skal derfor Dogmatiken ikke forklare, men forklarer den ved at forudsætte den, liig hiin Hvirvel, om hvilken den græske Naturspeculation talte Adskilligt, et bevægende Noget, som ingen Videnskab kan faae fat paa.)」(同9段落目)。聖書の教義が、天使や聖書についての或る教義と同じように、聖書学上、異質的な由来のものであるということについて、ハウフニエンシスは以上のように述べて、それに十分注意しないで宿罪の教義を引き入れるために教義学全体で混乱させられることを指摘した。彼は、だから宿罪について取り扱う際には、教義学が宿罪を前提すべきものとすべきであり、そしてそうすることによって罪を説明するという順序をとらなければならないとした。彼は異質的な由来のものを教義学の領域の中に引き入れて説明しようとする点を、教義学に対して批判したのである。

 

【補註】

1)宿罪:

 Arvesyndはドイツ語のErbsündeにあたり、どちらも通常キリスト教の「原罪」と訳される。大谷長は、彼自身の邦訳では「原罪」を訳語に採用しているが、他方でハウフニエンシスの議論の展開からしても、デンマーク語・ドイツ語のどちらにおいてもその語の由来を考えて「宿罪」と訳した方がよいのではないかと提案している。本ノートの著者はこの提案に同意して「宿罪」を借用させていただいている(ノート著者より補足:Arvesynd及びErbsündeの双方ともラテン語のpeccatum hereditariumからきており、Arve-Synd=Erb-Sündeという語の構成で、直訳すると「遺伝的罪」となる)。ハウフニエンシスの『不安の概念』では、このことは特に特筆されるべきこととされているが、Arvesynd=Erbsündeはアダムにおける第一の罪であるとと同時に、個人における第一の罪でもある。通俗的に知られている意味ではこのあたりが理解されていないと何を言っているのかわからなくなる恐れがあるので、この語源的な意味を踏まえた上で読んでおきたい。

2)心理学:

 ハウフニエンシスのこの語の用い方はコンパクトに言い換えれば「実存的反省」の意である。キェルケゴールがこの語を使う仕方としてはアンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート①も参照。

3)ヴィギリウス・ハウフニエンシス:

 Vigilius HaufniensisのVigiliusは、ラテン語のvigil(眠らない、寝ずの番の)から来ている。Haufniensisは「コペンハーゲンの」の意である。従って、ヴィギリウス・ハウフニエンシスの名は「コペンハーゲンの不寝番」を意味する。

4)「不変なもの」「罪が常に生ずるところのもの」「自由」「配置的前提」「罪の実在的な可能性」を関心の対象とする心理学の考察対象が『不安の概念』における「不安」である:

 このことは『不安の概念』という書の課題が、ハウフニエンシスという仮名でではあるが、キェルケゴールが「不安」という概念を通じて自由論を示そうとするものだということを表している。このことは後々の議論で取り上げていく。

5)教義学の中で天使、聖書等々についての教義を見出す場合にも起こる:

 イスラエルを取り巻く諸文明では、神は多数であり、ありとあらゆる精霊信仰があった。イスラエル宗教では、この圧倒的な異教性を、どれだけ弾き出し、どれだけ抱き込むかが課題であり、それが旧約の天使論を構成することとなった。以下に旧約における天使論と新約における天使論の構成過程をざっと記載しておく。

Ⅰ:旧約における天使論の構成過程

⓵神が「エロヒーム」と複数名詞で呼ばれることから始まり、「我々」(『創世記』1章26)という自己表現を用いる。

②神の子たちという中間存在を許容する(『創世記』6章2『ヨブ記』1章6)。

③やがて神自身に敵対する力となりうるところにイスラエルの神の唯一性にとって重大な疑義が挟み込まれる(『歴代誌上』21章1)。

ヤハウェは天使を抱き込んでそれを完全に克服するよりほかに道が無い。そうして主としてペルシャの宗教の影響のもとに、夥しい数の天使が登場することになり、その階級や役職や名称が定められた。また悪魔となった天使の堕落の消息から、遂には天使そのものの被造性にまで思弁は波及した(Ex.『ダニエル書』、『エノク書』、『ヨベル書』、『トビト書』の諸書の神学構成)。

Ⅱ:新約の天使論の構成過程

⓵上記の時代精神をイエスも弟子たちもそのまま呼吸している(『マルコによる福音書』1章13『使徒行伝』8章26)。

②一つの新しい思想が彼らの間に芽生える。イエスを主とし、神の子とし、更に神とすることによって、被造物たる天使は悉くその下位に押し下げられた(『ヘブル書』1章4)。

③天使は律法の仲介者としての足枷をはかせられる(『使徒行伝』7章30『ガラテヤ書』3章19)。

➃天使はキリスト者によって裁かれる地位におろされた(『コリント前書』6章3)。

⑤天使は必ずしも神聖な存在ではなくなった(『ペテロ前書』2章4『ユダ書』1章6)。

⑥天使はただ自己を空しくして神と子羊に奉仕し讃美する限りにおいてのみ崇高なものとして神の主権を犯すことなく存続されるようになった(『ヨハネの黙示録』1章15章11-14)。

6)渦巻:

 大谷長によると、キェルケゴールの出典典拠はディオゲネス・ラエルティオスの『哲学史、或いは著名な哲学者たちの生涯、意見と才気ある言表』であったという。キェルケゴールが参照していたのはデモクリトスとアナクサゴラスであるという。デモクリトスは、アトムは「大きさと数において無限である。それらは大きな全体をなして渦巻の中に動かされる。そしてそれを通してあらゆる合成された事物(火・水・風・地)が作り出される」とした。キェルケゴールが参照したデンマーク語訳には続けて「太陽と月はそのような渦巻きによって集約されており、そして強く動かされた小集団である」と書かれているという。またアナクサゴラスはヌースが混沌の中の一点に渦を生ぜしめ、それによって機械的に種子の混合と分離が生ずるとしている。

 

【参考文献】

Søren Kierkegaards Skrfter(セーレン・キェルケゴールのデンマーク語原文が読めるサイトです)

Begrebet Angest 1844(『不安の概念』独訳:Thomas Sören Hoffmann 編„Der Begriff Angst“/„Die Krankheit zum Tode“ marixverlag 2011 邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳)

■大谷長 著『キェルケゴールにおける自由と非自由創文社 1977

聖書ウィキソースで全文読めます。)

アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート➃

[…]Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nødvendighed, kort en Synthese. En Synthese er et Forhold mellem To. Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv.

I Forholdet mellem To er Forholdet det Tredie som negativ Eenhed, og de To forholde sig til Forholdet, og i Forholdet til Forholdet; saaledes er under Bestemmelsen Sjel Forholdet mellem Sjel og Legeme et Forhold. Forholder derimod Forholdet sig til sig selv, saa er dette Forhold det positive Tredie, og dette er Selvet.デンマーク語原文)

[…]Der Mensch ist eine Synthese von Unendlichkeit und Endlichkeit, vom Zeitlichen und Ewigen, von Freiheit und Norwendigkeit, kurz eine Synthese. Eine Synthese ist ein Verhältnis zwischen zweien. So betrachtet ist der Mensch noch kein Selbst.

In dem Verhältnis zwischen zweien ist als negative Einheit das Verhältnis das Dritte, und die zwei verhalten sich zum Verhältnis, und im Verhältnis zum Verhältnis, so ist unter der Bestimmung Seele das Verhältnis zwischen Seele und Leib ein Verhältnis. Verhält sich dagegen das Verhältnis zu sich selbst, so ist dieses Verahältnis das positive Dritte, und dies ist das Selbst.(トーマス・セーレン・ホフマンによるドイツ語訳)

[…]人間とは、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合、要するに或る綜合である。或る綜合とは、或る二つのものの間の関係である。このように観察するのでは人間はまだ自己ではない。

 二つのものの間の関係においては、その関係そのものは消極的[=否定的]統一としての第三者である。それら二つのものは、その関係に関係する。然して、その関係においてその関係に関係するのである。このようであるのが、魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係である¹⁾。それに対して、その関係がそれ自身に関係するという場合は、この関係は積極的な第三者である。然して、これが自己である。(拙訳)


消極的[=否定的]統一としての第三者について

無限性と有限性、永遠なもの(永遠性)と時間的なもの(時間性)、自由(ここでは可能性に同義)と必然性という各々の二項及びその二項間の関係である綜合は、神:人間における二項及びその二項間の関係が問題となるときに付随する問題系であり、それらは同じ神:人間のことを別の側面から見た様相である。

| 神 |:| 人 |

|無限性|:|有限性|

|可能性|:|必然性|

|永遠性|:|時間性|

 しかし、そのすぐ後に続いているように、この「神:人間」の様相である各々の二項及びその関係は、それだけでみるならば、人間は何ら自己ではないと言われる。「神:人間」の様相である各々の二項関係において、その関係そのものは消極的(否定的)統一としての第三者であると言われるが、これは神:人間、無限性:有限性、自由(可能性):必然性、永遠性:時間性等、当の二つの関係項及びその二項間の関係のほうが第一義的である場合には、二項の関係そのもの(つまりそれも一応は精神でありまた一応は自己であるのだが)外面的な事柄に過ぎないという意味である。言い回し方が難渋ではあるが、二項が「その関係に関係する。然して、その関係においてその関係に関係する」というのも、消極的[=否定的統一(綜合)という関係そのものとしての第三者と各々の二項がそれに関係していることを述べているという点において言っていることは同じである。つまり単なるトートロジーである。

 ただし、ここで一つ厄介な点がある。それはこの後に続いて「このようであるのが、魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係である」と言われている個所である。「魂という規定の下」というところの「魂」は、前ブログの「⑴キェルケゴールの「精神」について」で記しておいたrûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)と対比されるところの、あのnepheš - psychē - Sjel - Seele – 魂である。キリスト教は心身(魂と肉体の)二元論も霊・魂・肉体の三元論も取らず、霊肉二元論をとっているということは既に同じところで述べておいた。この二元論から、魂という規定の下での魂と肉体においては「神:人間」の領域が問題になっているのではなく、単に人間の領域が問題になっているとみなければならない。魂と肉体は、有限性の領域に関わることなのである。このことをキェルケゴールはnegativ(消極的[=否定的])という言葉に含めて言い表した。というのは、キェルケゴールの言語使用においては有限性は常に否定性のもとに帰すからである。

 そしてさらにややこしいのは、この「魂という規定の下での魂と肉体の間の或る関係」といったところの「関係そのもの」である消極的[=否定的]統一としての精神は、この魂と肉体を綜合するだけでなく、一応は自己であるが厳密には「まだ自己ではない」といわれるところの「無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合」も同時に定立するということである。このことはキェルケゴールの別の仮名著作である『不安の概念』に記されている。『不安の概念』には、今しがた述べた外面的な事柄である消極的[=否定的]統一としての第三者たる、関係そのものとしての精神ないし自己を問題にしている側面がある。以下はこのことについての引用と訳出である。

 『不安の概念』第三章には次のように問いが立てられている。

 Mennesket var altsaa en Synthese af Sjel og Legeme, men er tillige en Synthese af det Timelige og det Evige.[…]Hvad den sidste Synthese angaaer, da er det strax paafaldende, at den er dannet anderledes end den første. I den første var Sjel og Legeme Synthesens tvende Momenter, og Aanden det Tredie, dog saaledes, at der først egentlig var Tale om Synthesen idet Aanden sattes. Den anden Synthese har kun to Momenter: det Timelige og det Evige. Hvor er her det Tredie?デンマーク語原文)

 人間は従って魂と肉体の綜合であった。しかしまた時間的なものと永遠なものの綜合である。[…]この最後の綜合に関しては、それが最初のそれとは異なってつくられているということ、そのことがすぐに目を引く。最初には魂と肉体が綜合の二つの契機であり、そして精神が第三者であった。しかし、精神が定立されることによって初めて実際に綜合について問題になったというようにである。もう一つの綜合は、ただ時間的なものと永遠なものという二つの契機のみを持っている。第三者はこの場合どこにあるのであろうか?」(拙訳)

 この問いに対する答えは同じ三章において次のように記述されている。

 Synthesen af det Timelige og det Evige er ikke en anden Synthese, men Udtrykket for hiin første Synthese, ifølge hvilken Mennesket er en Synthese af Sjel og Legeme, der bæres af Aand. Saasnart Aanden er sat, er Øieblikket der.

 時間的なものと永遠なものの綜合は第二の綜合なのではない。そうではなくて、人間が精神によって支えられている魂と肉体との綜合であるという、あの第一の綜合に対する表現である。精神が定立されるや否や、瞬間がそこにある。(拙訳)


 Øieblikket er hiint Tvetydige, hvori Tiden og Evigheden berøre hinanden, og hermed er Begrebet Timelighed sat, hvor Tiden bestandig afskærer Evigheden og Evigheden bestandig gjennemtrænger Tiden.

 瞬間とは、その中で時間と永遠が互いに接触する、あの両義的なものである。そして、その中で時間が永遠を常に切り取り、永遠が常に時間に滲透する、時間性という概念が定立されている。(拙訳)

 

 Synthesen af det Sjelelige og det Legemlige skal sættes af Aand, men Aanden er det Evige, og er først derfor, naar Aanden sætter den første Synthese tillige som den anden Synthese af det Timelige og det Evige. デンマーク語原文)

 魂的なものと肉体的なものの綜合は、精神によって定立されるべきである。しかし精神は永遠なものである。綜合はそれ故に、精神が第一の綜合を同時に、時間的なものと永遠なものの第二の綜合と同様に定立する時に初めて在るのである。(拙訳)

 

 この消極的[=否定的]統一を契機として、その関係そのものとしての精神ないし自己において、有限性の領域である魂と肉体が綜合されると同時に、「神:人」の綜合がなされ、その関係がそれ自身に関係するという動きを持つ次元へと移行すると、積極的第三者としての精神ないし自己の次元に移行するのである。

 

アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート③

 Mennesket er Aand. Men hvad er Aand? Aand er Selvet. Men hvad er Selvet? Selvet er et Forhold, der forholder sig til sig selv, eller er det i Forholdet, at Forholdet forholder sig til sig selv; Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nødvendighed, kort en Synthese. En Synthese er et Forhold mellem To. Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv.(デンマーク語原文)

 

 Der Mensch ist Geist. Aber was ist Geist? Geist ist das Selbst. Aber was ist das Selbst? Das Selbst ist ein Verhältnis, das sich zu sich selbst verhält, oder ist das im Verhältnis, daß sich das Verhältnis zu sich selbst verhält; das Selbst ist nicht das Verhältnis, sondern daß sich das Verhältnis zu sich selbst verhält. Der Mensch ist eine Synthese von Unendlichkeit und Endlichkeit, vom Zeitlichen und Ewigen, von Freiheit und Norwendigkeit, kurz eine Synthese. Eine Synthese ist ein Verhältnis zwischen zweien. So betrachtet ist der Mensch noch kein Selbst.(トーマス・セーレン・ホフマンによるドイツ語の逐語訳)

 

 人間とは精神¹⁾である。しかし精神とは何であるか?精神とは自己²⁾である。しかし自己とは何であるか?自己とは、その関係がそれ自身に関係するという或る関係である。或いは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するという[その動きの]ことである。自己とは、その関係ではなく、その関係がそれ自身に関係するという[その動きの]ことなのである³⁾。人間とは、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然性の綜合、要するに或る綜合である。或る綜合とは、或る二つのものの間の関係である。このように観察するのでは人間はまだ自己ではない。(拙訳)

  

⑴キェルケゴールの「精神」について
 精神と訳されているデンマーク語のAand(現代ではÅnd)は、語源的にはラテン語のanima(息とか空気)、animus(心)と関連し、また、ギリシャ語のánemos(風)と関連している。しかしキェルケゴールは、むしろキリスト教の伝統に根差して、Aandを聖書におけるヘブライ語のrûah(ルーアハ)及びそこから受け継がれたギリシャ語のpneuma(プネウマ)に対応させている。ドイツ語訳ではもちろんGeistと訳されるが、キェルケゴールの訳の場合、このGeistもその理解に則って理解されねばならない。このrûah及びpneumaは、それぞれ聖書においてはヘブライ語のnepheš(ネフェシュ)及びそれから受け継がれたギリシャ語のpsychē(プシュケー)と相互対の関係にある。この語について対応させられているデンマーク語はSjel(魂・心)であり、ドイツ語訳ではSeeleがこれに当てられている。rûah - pneuma - Aand - Geist及びnepheš - psychē - Sjel - Seeleは、日本語訳聖書ではそれぞれ「霊」と「魂(心)」と訳される。rûahは元来は「風」「息」といった意味であり、『創世記』第二章第七節で「主なる神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり。人即ち生靈となりぬ」と言われているときの、「生氣(命の息)」がこれに当たる。rûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)という語は、神と人間の関連(以下これを説明の便宜上「神:人間」と表記する)が問題となる場合に用いられ、nepheš - psychē - Sjel - Seele - 魂という語は、肉体(sarksないしsoma(身))と共に、人間自体が問題となる場合に用いられる。キリスト教においては魂(心)と肉体(身)の二元論(心身二元論)は存在しない。あるのは霊肉二元論である。魂は神の霊と呼応することができるが、肉体を離れるわけではない。キリスト教において語られる霊(精神)・魂(心)・肉体(身)は三元論ではないのである。このことから、「人間は精神である」という表現には「人間は霊的人間になる可能性を持った存在である」ということ、それに加えて、だからこそ「人間は、神の霊の働きかけによって、或いは、神の霊によって生かされる霊的人間へと絶えず生成すべきである」といった当為の意味を含めて考えなくてはならない。というのは「人間はrûah - pneuma - Aand - Geist - 霊(精神)である」と言われながら、キリスト教の観念において人間自体が問題となる場合には心身の関連の領域が問題であって、「神:人間」の領域が問題とならないからである。このように、「人間は精神である」とキェルケゴールが言うとき、そこには「人間は精神となるべきである」のだと言う当為の意味を含めて語っているのである。なぜなら人間は、自然な在り方で直ちに精神であるとは言えないからである。これは「神:人間」について真正であることの当為、つまり信仰が問われているのである。

 

⑵キェルケゴールの「自己」について
 キェルケゴールの「自己」の最も基本的なことは以下の三点である。

①自己とは派生的な措定されたものであるということ。
②自己とは常に絶えず生成するものであるということ。
③自己の存在の重さ。

①自己が何によって措定されているかと言えば、他者=神によってである。事実が真実であるのは神が機縁として働くからである。我々が勝手な思いで、言葉で分節化しながら生きているその一歩前に、永遠の生命=神は最初の御方として、機縁として、刻々と働いている。キェルケゴールの「自己」の概念を理解するにはまず、我々の全ての散漫な状態と神の機縁としての働きの別を徹底的に自覚しなければならない。

「何度も人生を通じて日毎、あなたは最初に私たちを愛される。私たちが朝目覚めて、あなたに思いを向ける時、――あなたは最初の御方であり、あなたは、まず私たちを愛される。たとえ私が夜明けに立ち上がって、祈りにおいて私の思いをあなたに向ける時でさえ、あなたは私にとってあまりにも先んじておられる。あなたが私をまず愛されるのだ。私が全ての三万から私の思いを集中しあなたを深く思うとき、あなたはまず最初の御方である。」(キェルケゴールの遺稿より。山下秀智『哲学書概説シリーズⅥ キェルケゴール『死に至る病』』p.28)

②自己は常に絶えず生成しつつある。それは「自己とは、その関係がそれ自身に関係するという或る関係」だからである。『死に至る病』で分析展開される種々の絶望状態にあってもこれは妥当しており、信仰状態にあっても変わりはない。特に信仰者になるとあたかもどこか陸地に到着したように考えるのは全くの間違いである。

「一体どれぐらいの人が、現実に神-関係を持つに至ると、人生が疲労困憊するものになるかということを理解しているだろうか。完全に習慣的な保証(日常的な安定)が奪われること(たいていの人はある年齢に達すると、彼らの成長も終息し、生活も単なる繰り返しになり、そう、殆ど定期的反復に過ぎなくなるのだが)、ただそのことが起こるのだ、そう、安定の保証が完全に奪われるのだ!その一方で、日常的な畏れと戦きが、毎日毎日、またその日の全ての瞬間、最大の重要性を持つ決断の内へと入り込むのである――正確に言えば、全ての精神の-実存(enhver Aands-Existents)は、「七万尋の水上」に存在するのだから、こうした畏れと戦きの場に生きることになるのだ。」(キェルケゴールの遺稿より。山下秀智『哲学書概説シリーズⅥ キェルケゴール『死に至る病』』p.30)

③自己の存在の重みは、「神の前に立つ単独者」というキェルケゴールがよく使う表現に現れている。単独者の原語はden Enkelteであるが、この語は、日本語で単独者といった場合に見て取れてしまうような、独我論的な意味を含んだ強い自意識を持った存在といったニュアンスを全く持っていない。それはキェルケゴールの考えているニュアンスとは全く異なっていることに注意しなければならない。キェルケゴールの自己は、隔離された絶海の孤島にいるのではない。大海の一滴でありながら、海を構成している掛替えのない存在、それがこのden Enkelteであり、永遠の生命=神との関係を自覚した存在というのが、その本来の意味である。キェルケゴールは、ただ信仰者の信仰の飛躍の敢行においてのみ、神は人間にとって現実性となるとする。この飛躍以前には、神は現実には人間にとって実存せず、神はただ抽象的な可能性に過ぎない。言い換えれば、この飛躍以前には、内在的に(抽象の想像的媒介において)、神は実存しないし、現存しない。実存する人格が信仰を持たないなら、その人間にとって神は存在しないし、現存しないというわけである。『マタイによる福音書』8章13節には「行け、汝の信ずるが如く汝に成れ」、同9章29節には「汝らの信ずるが如く汝らに成れ」とあるが、キェルケゴールはまさにこれを参照しながら『死に至る病』の第二部第二章「罪のソクラテスの定義」で「汝らの信ずるが如く汝らに成れ」という言葉を、「汝の信ずるが如く、汝は在る」「信ずることが存在することである」と言い換えている。そして同じところで彼はこれをデカルトの有名な命題「私は考える、ゆえに私は在る」→「考えることが存在することである」と対立させている。これは更に、「神が天に在ますが故に、信ずることができる」、ということと合わせてみる必要がある。キェルケゴールによれば、神は人間に無限に近く、同時にまた、無限に遠い。デカルトはレス・コギスタンスとしての主体を確立して神の存在証明に向かったが、キェルケゴールはこうした証明を全く認めなかった。絶望の原語であるFortvivlelseには懐疑ないし不信を意味するTvivlが含まれている。デカルトのレス・コギスタンスとしての主体では、神によって刻々と創造せられつつあるにもかかわらず(その意味では、神は近いというよりも自己に即している)、その根本地盤を離陸してしまう。だからそうなると、生ける神は無限に遠くなり、信仰からも程遠くなってしまい、神もまたその働きようがなく、存在しないも同然になってしまうのである。これはキリスト者であることがいかに重い責任があるかを証し、同時にそのことで自己の存在の重みを証するものなのである。

 

⑶文法・訳文解説

1⃣最初の一文におけるsig selv=sich selbstのsig=sichは、関係文の主語をなす関係代名詞der=dasの再帰代名詞である。この関係代名詞der=dasは主文の述語であるet Forhold=ein Verhältnisを先行詞としているから、関係代名詞der=dasの再帰代名詞であるsig selv=sich selbstのsig=sichは「関係」にあたる。

2⃣elleroder以下のer det i Forholdet, at …ist das im Verhältnis, daß …においては、detdasatdaß節以下の文の先行詞である。したがって、「自己とは、その関係において、atdaß節以下ということである=Forholdet forholder sig til sig selvsich das Verhältnis zu sich selbst verhält=その関係がそれ自身に関係するということである」となる。

3⃣著者が「自己とは何か?」ということに対する回答として強調したいのは、ただ単に名詞で表されるところの「その関係」ではなく、「Forholdet forholder sig til sig selv=sich das Verhältnis zu sich selbst verhält=その関係が関係自身に関係する」というその動きそのもののことであるから、「その動きの」と補填した。「その関係がそれ自身に関係するという或る関係」というのは運動概念であることを三度繰り返し別の言い方で強調しているのである。これは外面的な出来事ないし行為ではなく、内面的に行為することであり、内面性の事柄である。言い換えると「自己意識すること」=「自己自身を反省すること」である。「この自己意識は観照ではない。というのは、そう信じている者は自分自身を理解しなかったのである。なぜなら、彼は、自分自身同時に生成の中におり、それ故に観照のために完結したものでありえないということを知るからである。この自己意識はそれ故に行為である。そしてこの行為は更にまた内面性である」(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)『不安の概念』より)。

4⃣「自己とは何か?」という問いに対する回答、つまり人間の本質であるとされたBestemmelseBestimmung=規定・使命である成るべきところの自己(本来的自己)として強調されていることは、「神:人間の関係において、その関係がそれ自身に関係するというその動きのこと」である。また、最初の一文のet Forholdein Verhältnis=或る関係というところが不定冠詞eteinであることから、自己であるとされる「その関係がそれ自身に関係するという動きとしての或る関係」は、多数ある「その関係がそれ自身に関係するという動きとしての関係」の内の任意の一つであるということを見て取っておく必要がある。

5⃣「関係する」にあたるforholde sigsich verhaltenの語義について。桝田啓三郎(ちくま学芸文庫版『死に至る病』訳註)によれば、語源的にはまずドイツ語のverhaltenという動詞に従ってデンマーク語のforholdeという動詞が作られ、このforholdeを動詞的名詞化したものがForholdという名詞である。Forholdは、元来は「何かが逃げないように力ずくでしっかりとつかまえておく」という意味であったが、1700年頃からドイツ語から借用されるか、或いはドイツ語の影響を受けるかして、ドイツ語のVerhältnisと同じような意味で用いられるに至った語であるとされる。元の動詞forholdeは、ドイツ語においてverhaltensich verhaltenという再帰動詞としてよく用いられるのと同様に、forholde sigという再帰動詞として用いられる。その意味は次の通りである。

①「ある身構え、姿勢、態度をとる」→「…のやり方をする、…に振る舞う、…の行動をとる、…の態度で対処する」

②多くの場合非人称主語と共に、「物事が…の事情(状態)にある」

③「…に対して或る関係に立つ」、特に「誰かが誰かと知り合いになる」「誰かに対して依存関係に立つ」

④「何かが何かと対応している、比例している」

以上の意味が「forholde sig=sich verhalten=関係する」に全て備わっていると捉えておきたい。またforholdeの動詞的名詞Forholdは通常①からの意味、つまりその都度の場合場合における「態度、行動、挙動」の意味、特に比較的持続的な「人間の全人格的な行動ないし態度」の意味に用いられる。ドイツ語の場合は動詞verhaltenからVerhalten「態度、行動、挙動etc.」とVerhältnis「関係、比、釣り合いetc.」との二つの名詞ができたが、デンマーク語の場合は動詞forholdeからできた名詞Forhold一語がドイツ語で言うところのVerhaltenとVerhältnisの両方の意味を持っており、しかも「態度、行動、挙動」が第一義である。名詞Folholdの語義も、上記のような本来の語義を絶えず念頭に置いて読む必要がある。キェルケゴールの文脈においてはなお、Forhold及びforholde sigの以上の意味はすべて、「神:人間」に関わっているものである。

 

グノーシス用語辞典(ら行)

グノーシス用語辞典

楽園/パラダイス
 旧約聖書『創世記』のエデンの園は「東の方」に設けられたとされ、読者には平面での連想を誘う。しかし、新約時代になると、それとは対照的に垂直軸に沿って楽園を「第三の天」に位置づける見方があったことは、すでに『コリント人への第二の手紙』におけるパウロの証言から知られる。グノーシス主義の神話でも原則として常に垂直軸での見方が前提されている。たとえば、『ヨハネのアポクリュフォン』が「楽園への追放」に続いて「楽園からの追放」について物語る場合も、上から下へと話の舞台が下降してゆくのである。『アルコーンの本質』でもアルコンテスが心魂的アダムを楽園へ拉致する。『この世の起源について』でも同様であるが、その場所は「正義」なるサバオートによって造られた月と太陽の軌道の外だという。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派グノーシス主義の教説においては、デミウルゴスの下の第四の天のことで、アダムの住処。『三部の教え』では、ロゴスが過失の後に生み出したプレーローマの不完全な模像たちが置かれる場所。ヒッポリュトス『全異端反駁』の報告における『バルクの書』では、半処女エデンと「父」エローヒームの満悦から生まれた天使群の総称。『フィリポによる福音書』はこれらの事柄とは対照的に積極的な意味の楽園について頻繁に語るが、その空間的な位置づけは不明である。

霊/霊的
 宇宙万物が霊、心魂、物質(肉)の三つからなると考える、グノーシス主義の世界観における最高の原理および価値。ほとんど常に他の二つとの対象において言及される。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説によれば、物質的世界に分散している霊は滅びることはありえず、終末においてプレーローマに受け入れられる。

ロゴス/ことば/言葉
 「ロゴス」は古典ギリシャ語からヘレニズム時代のコイネー・ギリシャ語に至るまで、人間の言語活動と理性に関わる実に幅広い意味で用いられた。それは発言、発話、表現、噂、事柄、計算、知らせ、講話、物語、書物、根拠、意義、考察、教えといった日常用語のレベルから、「世界理性」や「指導的理性」などの哲学的述語(ストア派)のレベルにまでわたっている。ナグ・ハマディ文書を含むグノーシス主義文書は、前者の日常的な語義での用法も、たとえば『復活に関する教え(ロゴス)』のほか、随所で見せているが、神話論的に擬人化して用いる場合が多い。その場合の「ロゴス(あるいは「言葉」)」は、プレーローマ内部の高次のアイオーンであり、神的存在の一つである。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派の教説では「ゾーエー(生命)」と、『ヨハネのアポクリュフォン』では「真理」とそれぞれ「対」を構成する。『エジプト人の福音書』では神的アウトゲネースの別名。また、ありとあらゆる箇所で、神的領域から出現する終末論的啓示者として描き出されている。『三部の教え』では、「父(至高神)」の「思考」として成立するアイオーンたち、あるいは「父」の「ことば」としての「御子」も指すが、圧倒的に多くの場合、プレーローマの最下位に位置する男性的アイオーン「ロゴス」を指す。この場合の「ロゴス」はソフィアと同じく過失を犯すもので、そこから下方の世界が生成されていくことになる。『フィリポによる福音書』でも超世界的でありながら、肉の領域に内在する神的存在を表しているが、どのような神話論的な枠組みを前提するものなのか不詳である。同書では、正典福音書でイエスの口に置かれている言葉を「ロゴスが言っている」/「ロゴスは言った」の表現で導入する点で、殉教者ユスティノスやエイレナイオスなどの護教家のロゴス・キリスト論の表現法と共通している。

 

グノーシス用語辞典(や行)

グノーシス用語辞典

ヤルダバオート/イアダルバオト/イアルダバオト
 可視的な中間界以下の領域を創造して、支配する造物主デミウルゴスに対する最も代表的な呼称。「サクラ(サクラス)」あるいは「サマエール」とも呼ばれる。プレーローマの中に生じた過失から生まれる、いわば流産の子で、自分を超える神はいないと豪語する無知蒙昧な神として描かれる。多くのグノーシス主義救済神話は、旧約聖書の神ヤーヴェのもつ「荒ぶる神」としての位格と、「不可知的存在」としての神の本質および「愛の神」「義の神」といった側面を引き裂き、前者をこのヤルダバオートに同定させ、後者を超越的善にして不可知なる神としての至高神に対応させる形をとり、特にそれは創世記の冒頭の創造物語と楽園物語に対して価値逆転的な解釈を展開する形で描かれる。
 ヤルダバオートという名称そのものが、ヤーヴェを呪われたる偽りの神として貶めるための造語である。『この世の起源について』はその語義を「若者よ、渡ってきなさい」の意であると説明する。この説明はおそらく、シリア語で「ヤルダー」が「若者」、「ベオート」が「渡れ(命令形)」の意であることに基づくものと思われる。しかし同時に、同じ『この世の起源について』では、ヤルダバオートを「奈落(カオス)」を母とする子として説明している。シリア語で「奈落」あるいは「混沌」は「バフート」であるから、ヤルダバオートは「奈落を母とする若者」の意になり、この合成語の意味を早くから「混沌の子」と説明してきた古典的な学説と一致することになる。さらに、アラム語で「――を生む者」の意の「ヤレド」に目的語として「サバオート」がついた形と見做して、「サバオートを生む者」の意とする説もあり、特定できない。

 

グノーシス用語辞典(ま行)

グノーシス用語辞典

見えざる霊
 「処女なる霊」と一組で用いられて至高神を指す場合が多い。

モノゲネース
 ギリシャ語で「独り子」の意。エイレナイオス『異端反駁』の報告におけるヴァレンティノス派グノーシス主義の教説においては、至高神(ビュトスあるいはプロパトール)とその女性的「対」(エンノイアあるいはシゲー)から生まれ、キリストと精霊を流出する存在。『ヨハネのアポクリュフォン』では、アウトゲネース、すなわちキリストと同定される。

模倣の霊/忌むべき霊
 ギリシャ語「アンティミーモン プネウマ」の訳。『ヨハネのアポクリュフォン』において集中的に言及される。特にその歴史的起源を補論の形で論じる箇所によれば、プレーローマから派遣された「光のエピノイア」を見た悪の天使たちが、それに似せて造り出し、人間の娘たちを誘惑して子供を産ませる力とされている。